幸せでいて欲しい人
若い時の職場の先輩にTさんと言う人がいた。内勤の事務方のベテランで、窓口ではなく後方担当。勤続十五年以上のベテランで、仕事が正確で速く私達営業の人間も「困った時はTさんに相談すればなんとかしてもらえる」と頼りにする存在だった。
営業担当者が持ち帰った伝票にそのままでは処理できない不備があると、普通の事務方は店内にある「不備ボックス」というのに放り込んでおくだけなのだが、Tさんは外回り中の私達に直接連絡を入れてくれた。当時はまだ携帯電話を持たせてもらえずポケットベルを鳴らすのみだったが、ベルが鳴ると何か店から自分に急ぎの用事がある、と言う事なので急いで電話する。するとTさんが出て、
「○○さんの定期預金の伝票、押印してあるのと届け出の印鑑が違うよ」
とか言った具合に、不備の内容を口頭で伝えてくれる。○○さんのお宅が今いる場所から近いと、すぐにその足で伝票の貰いなおしに行くことが出来るので大変助かる。何度も不毛な用事で往復しなくてよく、有難かった。
ただ、いつものTさんはとても厳しい人だった。昔は「指導員」と言う制度があって、一人の新入社員に一人のベテランが付くことになっていたのだが、Tさんは私の同期入社の一人、Sちゃんの指導員だった。
「めっちゃこわいねん」
Sちゃんは当初とても緊張して怖がっていた。
「『そんなとこに伝票置いたらあかん!』とか『電話は三コールと以内にとってや、って言うてるやろ!』とかビシビシ言われる」
彼女はいつも半泣きで訴えていた。私達は指導員がTさんでないことにほっとしつつ、Sちゃんを慰めていた。
ある時Sちゃんが大きめのミスをした。Tさんに叱責を受け、その勢いに彼女が泣きそうになっていると
「泣かんといてな!」
という一言が飛んできてSちゃんはビクッとして涙がストップしてしまったらしい。その後にTさんは諭すようにこういったそうだ。
「泣くって何の解決にもならない。周囲も対応に困るし、迷惑やろ。時間が勿体ない。泣くんなら仕事終わった後、休憩室かトイレで泣きなさい。仕事場で泣くもんじゃない。子供じゃなくて、社会人なんやからね!」
Sちゃんは賢い子だった。”この人、なんか違う”と思ったそうだ。「怒る」んじゃなく私の為に「叱って」くれてるんだな、と思ったという。
それまではTさんの一挙手一投足にビクビクしていたSちゃんだったが、この時から些細なことにビクつかなくなった。ミスをして注意されても
「はい!すいません!」
とシャキッと背中を伸ばして返事することが多くなった。Sちゃんは元々剽軽で人を笑わせるのが得意な子だったから、やがてTさんもそんな彼女に笑顔を見せてくれるようになった。
その頃には私達同期もすっかりTさんと普通に話せるようになっていた。厳しい中にも、私達後輩への暖かい思いやりを感じていたからに他ならない。
自分の同期が一人二人と結婚して職場を去っていっても、Tさんは長い間独身で仕事を続けていた。私達は良い人なのにどうして結婚しないのかな、などととお節介な噂をしていた。その頃はまだ「女の幸せ=結婚して家庭に引っ込む」という観念がまかり通っていたから、Tさんは「不幸な負け組」のように思われていた。
でも仕事をしているTさんはとてもイキイキしていて楽しそうで、私の目には全然不幸そうには見えなかった。なんかカッコいいな、と憧れと尊敬の視線を送っていた。
かなりの時間が経った頃、Tさんは縁あって地元の人のところに嫁いだ。私にも結婚報告の葉書をくれた。そこには、
『在間も良い相手みつけてね♡』
という手書きのメッセージが添えられていて、Tさん幸せなんだ、良かったなあと思っていた。
丁度私のお客様の家の近くに新居があったので、私は何度か顔を見に行ったりしたこともあった。
そんなある日、Tさんの同期のIさんが私を手招きするので行ってみると
「在間、Tちゃんの家なんも変わりない?」
と聞かれた。
「最近行ってませんが…」
Tさん宅は少し遠い所だったので、本当に近所に用事がある時しか覗けなかったのである。Iさんの心配そうな口調が気になった。
「どうかされたんですか?」
Iさんは口ごもりながら連絡が取れなくなった、と言う。とても驚いた。
「時間あったら、ちょっと覗いてみてくれへん?」
「わかりました」
私もどうしたんだろう、と心配になった。
その日早速近所に行ってインターホンを押してみたが応答はない。普通に留守宅よなあ、と思ったのだが、横手に回った時少し違和感を覚えた。
二階の窓から庭に向かって長い梯子が下りていた。窓は開いたままで、レースのカーテンが風に揺れている。一体何のための梯子なんだろう。不用心な感じだなあ、と思いつつ後ろ髪をひかれる思いでTさん宅を後にした。
Iさんには見たままを報告した。
「そう…元気にしてたらええんやけどな」
Iさんは浮かない顔でありがとう、と言ってくれた。
気になりつつも時間が過ぎ、そろそろTさんの事もあまり話題にならなくなっていたある日、
「在間!Tちゃんから連絡があってん!」
とIさんが話しかけてきた。驚いて話を聞くとTさんは夫から暴力を振るわれるようになり、耐えかねて家を飛び出したとのことだった。私が見た梯子は夜中に夫に気付かれないよう部屋から抜け出すための道具だったそうで、
「見られたかあ」
とサバサバとした様子で言っておられたそうだ。
それ以降Tさんの消息は全く聞かなくなった。噂では隣の市の信金で勤めており、近くで一人暮らしをしているという事だった。
私も職場を去ってから随分時間が経ってしまった。今は幸せでいらっしゃるといいんだけどな、と時々思い出している。