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カオスな女子トイレ

楽器を吹く際には、口の中を清潔にしておくのが理想的である。楽器には意図的に唾液を搾り取って入れるわけではないけれど、どうしても少しは入ってしまう。呼気も当然入るが、ここにもやはり微量の口の中の汚れなどが入り込むことになるので、出来る限り綺麗にしておかねばならないのである。
だから食事時を跨ぐ本番がある時は、管楽器奏者は歯磨きセットを必ず携帯している。私は洗口液も一緒に持って行くことにしている。食事の後に歯を磨くのは歯の為にも良いことなので、楽器を守りつつ自分の歯をケアできる、良い習慣だと思う。
この作業はすっかり当たり前になってしまっているので、面倒と感じることはない。

歯を磨こうと思えば水が必要である。しかしコンサートホールなどで、きちんとした洗面所があるのは楽屋くらいである。ない楽屋もざらにあるし、あっても二箇所くらいがせいぜいだ。
定期演奏会なら出演者は知り合いだけだから、「お先~」と譲り合いながら交替で、楽屋の洗面所で歯磨きを済ませる(パーカッションとコントラバスはしない)。多少時間はかかるがたいしたことはない。
問題はコンクールの時である。

コンクールの会場は大抵大きなホールである。楽屋は審査員の先生方の控室として使われるので、演奏者は出入りできない。
楽屋の他に洗面所があるのはもうここ一択。そう、トイレである。
正直言うと、トイレという不浄な場所で歯を磨くという行為には、私は未だに微かな抵抗を覚える。きっとみんなそうだろうと思う。だが背に腹は代えられないので、鏡を見つつシャコシャコやることになる。不浄を流す水でなく、手を洗う水を使うから大丈夫だ、といつも自分に言い聞かせている。
大人とは言え、コンクールはそれなりに『闘いの場』である。様々な楽団のメンバーが無言でシャコシャコしながら、鏡に映る人間を見るとはなしに見ている。
あのジャケットは○○吹奏楽団だな。プログラムを見たら、確かウチと課題曲は同じだったぞ。自由曲は△△か。えらい難曲に挑戦するんやなあ。どんな演奏するんやろう。この子は何の楽器の担当かなあ・・・。
お互いに素知らぬ顔を決め込んで歯磨きに集中しているふりをしながら、実は脳内は詮索に忙しい。これは私だけかも知れないが。
ベテランも若者も、大勢の人間が無言でひたすら歯磨きに勤しむ様は、ちょっと滑稽である。

コンクールにはドレスコードなどはないものの、普通はあらたまった服装で舞台に上がる。上下黒とか上白、下黒などとよく言われる。ラフなTシャツなどはご法度で、女性なら上はブラウス、男性はカッターシャツである。短いスカートは厳禁で必ずロング丈を着用するが、最近はズボン派が多い。私もここ数年はズボン以外はいたことはない。移動が多いため、ロングスカートは何かと動きづらく不便だからだ。
靴はスニーカーはいけない。パンプスなどを履く。これは必ず黒でなければならない。誰が決めたわけでもないだろうが、私はずっと黒しか履いたことはない。
この格好で本番まで過ごすのは窮屈である。おまけにコンクールの開催時は夏真っ盛り。暑すぎて本番までに死にそうになる。だから本番まで時間のある時は、みんな普段のラフな格好でやってきて、本番の時間が近づくとそれぞれ着替えることになる。

着替えの為には、更衣室がちゃんと用意されている。そしてコンクール前には各楽団の代表者あてに
『トイレでの更衣はおやめください』
という注意が送られてくる。本当に用を足したい人が、使えなくならないようにする為である。
が、楽屋は先生に占拠され、広さのあるいくつかの部屋は本番前のチューニング室として利用されてしまう。応急処置をするリペアマンのためにも、必ず一室必要である。すると残っているのは会議室とか、談話室とか、数人が入れるくらいの小さな部屋であることが多い。下手をすると和室のこともある。
ここに着替えたい人間が押し寄せると、部屋はさながら戦場になる。狭いし暑いし、どうしようもない。そこで本部からの注意を無視して、トイレで着替えようという輩が出てくる。まあ、気持ちはわからないでもない。学生ではないから、誰も注意しない。

最早個室にすら入らず、洗面所の鏡の前で着替えだす猛者もいる。たまたま着替えの瞬間に居合わせると、どこの誰だか知らない人の、あられもない姿を見ないようにするのに苦労する。こういう場合、本人には恥じらいのかけらもない事が多い。
ここに歯磨きする人や化粧直しをする人がやって来るのだから、かなりカオスである。しかし毎年こうだから、文句を言う人はいない。その場に居合わせた人間には、譲り合いの精神がいかんなく発揮され、皆黙々と目的の作業を済ませると、それぞれの集合場所に戻って行く。忘れ物はよくあるが、トラブルは聞いたことがない。
考えてみれば不思議なものである。

時代がどれだけ進もうが、出演者が世代交代しようが毎年繰り返される、これがコンクール当日の女子トイレの風景である。
一見非効率で当事者は大変だけれど、個人的にはちょっと面白いから、このままでも良いような気がしている。