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良い人をやめる

どうも『良い人』になりたがる傾向がある。幼少期からなかなか取れない、考え方の癖である。

『良い人』は魅力的だ。正義の味方だし、世間はその通りだ、と主張を認めてくれる。大手を振って歩ける。自分の外側が他者にどう見えるか、一応しっかり保証されている。

しかし、素の自分は『良い人』ではない。それをわかっているから、演じるのが苦しくなる。素の自分と『良い人』という世間的理想型とのギャップに苦しめられる。
それがわかっているのに、自ら望んでその苦しみの中に身を投じようとする。

それは素の自分が昔、受け容れられるべき人達に、無条件に、受け容れられた経験がとても少ないからだと言う事実を、今冷静に受け止めている。

素の自分でいる事に自信が持てないから、外の一般的評価に頼る。
だが、本当は素の自分に自信を持ちたい。素のままで認めて欲しい。
外に自分の評価を求めている限り、永遠に素の自分に満足する事などありはしないのに。

『自分に自信を持って良い』といくら周りに言われた所で、持つ事は出来ない。
その時点で自分にそれだけの価値を自分が感じていなければ。

これは荒療治であるけれど、兎に角自分に自分を信じさせる事である。
私は大丈夫、私は幸運だ、私は値打ちがある、私は頑張っている…最初は歯が浮くような気持ち悪さを味わうが、じわじわと自分の心に刷り込まれていく。
本気で取り組んでいれば、やがて心がポッと温かくなるような『私は今の私のままで良いんだ』という小さな自覚の芽が地表に顔を出す時が必ず来る。

大事にこの芽に水をやり、"自分を大事にする"という肥やしを与えて育てていくと、だんだん『良い人』でいる事に値打ちを感じなくなってくる。というか、「そういう考え方もあるよね。私とは違うけど」と遠くから眺める事が出来るようになってくる。
鼻息荒く「良い人なんて馬鹿げてる」というのではない。ふーん、そう言う考えね、なるほどね、と否定も肯定もせずフラットにただ"眺める"のである。

『良い人』は立派に見える。
『良い人』は正しい。
『良い人』は非の打ち所がない。

でもそれは素の私ではない。
でもそれで良い。

まだ100%こういう考え方は出来ないけど、少しずつ素の私を愛せるようになってきている。
胸のうちに広がる静かな湖面のような感覚を、出来るだけ長く味わいたいと思っている。






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