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社長の知り合い

お客様がお買い上げの際よくレジで言われる言葉に、
「僕はね、ここの社長と知り合いなんだよね」
という類がある。
靴だとダンロップ、マドラス、アシックス、鞄だとエースなどが商品として取り扱いのある大手企業として思い浮かぶ。そういうところの商品をお求めのお客様の中に、ちょくちょく冒頭のセリフを述べられる方がある。一人ではなく、複数名である。

こういった言葉を発するのはどういう心理状態なのかな、といつも不思議に思う。
「僕がここの社長なんだよ」
であれば、平身低頭、失礼致しました、いつも大変お世話になっております、と言わねばならない。が、本人さんではない。どの程度のお知り合いかわからないし、こちらもどうお答えしていいのか迷うので、
「はあ、それはそれは、すごいですね」
とお答えするしかないのだが、言っていて自分で何が凄いのかわからない。取り敢えず、お客様が求めているのは『社長の知人である』ということに対する称賛であろうか、と思うので、『凄い』というなんにでも当てはめることのできる当たり障りのない、いい加減な誉め言葉を発するしかないのである。
しかしお客様はそのいい加減な誉め言葉でたいてい十分ご満足なさるので、気分良くお買い上げいただけるのであればいいじゃないか、と思って、深く考えないように努めている。ただなんとなく、変な気分になる。

『虎の威を借る狐』という言葉があるが、まあその辺がこういうお客様の心理に近いのかな、と思う。罪はないし、スーパーのレジで、パートのおばはん相手に虎の威を借りてみたところでなんの得にもならず、そこまで思っての言葉ではないのだろう。
『社長』という簡単にはなることの出来ない職業(しかも世間でいうところの大企業の)に就いている知り合いがいるほど、私はハイソな人間なんですよ、って誇示したいのかな、と思う。圧倒的に男性に多いのも興味深い。

意地悪ばあさん根性を出すと、そんなことどうでもいいやんか、と思う。
社長と知り合いだろうが、会社の一社員と知り合いだろうが、その人の値打ちに何も変わりはない。
所謂『箔が付く』のはどちらかといえば平社員より社長の知り合いの方だと考えるのだろうが、真実を証明する術はない。社長から、
「この人は自分の知人なので、丁重に扱って欲しい」
旨の通知が店に来ているとかでない限り、「社長の知人」は空虚な看板である。

父方の祖母は父に、
「お前の父親は医師。私は教師。そんな立派な家は、この川流域に二つとない。お前はもっと誇りを持て」
と日頃口酸っぱく言っていたそうである。
戦争で夫を31歳で亡くし、子供を女手一つで育て上げねばならなかった祖母の、それは唯一の心の拠り所、支えであったのだろう。そうでも思わねばやっていられなかったのだと思う。時代も状況も違うから安易な意見は言えないが、この心理にも似たところがあると思う。

今は逼塞していても、うちは本当は立派な経歴の家なんだ。
お前は勉強ができなくても、お父さんは優秀だったんだ。
必ず先に「現状は○○だけど」という、『現状の否定』が入る。
現状に満足していない、これで良しとしていない、今はダメな状態なんだ、という寂しい心が垣間見える。
現状を認められない、悲しい頑張りが悲鳴を上げているのが聴こえる。
聞いていて苦しくなる。子供時代の父も多分、良い気分ではなかったろう。戦争は人を傷つけ殺めるという他に、こうやって末代まで連綿と続く負の遺産を産むという罪を犯すのだ、としみじみ思わされる。
現に父は自己肯定感の低い、寂しい心を抱えた人間に育っており、その影響は私達子供にも少なからず及んだ。私は9割方戦争のせいだと思っている。

自分は社長じゃないけど、知人は社長なんだ。
俺はなれないけど、社長ってのは簡単になれない職業なんだぞ。
俺は大したことない人間だけど、そんなすごい奴が知人の中にいるんだ。
社長が俺を知人として遇してくれるんだ。
どうだ、俺ってすごいだろう。

お客様の他愛ないお言葉に、どうお答えしていいか少し困りつつ、ふと考えさせられる。
自分の中にもこんな感情がどこかに眠っていないだろうか。

自分の相撲は自分のふんどしでとりたいものだ。