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ファザコン気質

「在間さん、ちょっといいかな」
先日出勤するなり、社員のFさんに呼びとめられた。なんだろうと思ったら、
「僕さ、三月で退職することにしたんだよ」
と言われて言葉に詰まってしまった。年齢的にはおかしくないけれど、寝耳に水だった。

Fさんは職場の上司である。社員だが一度正社員を定年退職されており、現在は嘱託社員だ。嘱託社員は二年更新で、Fさんは既に二度更新されている。
「上からは『もう一年どうですか』って言われてるんだけどね。もういいかな、って思ってさ」
正式には三月の十日付とのことだった。

今もだが、初心者マークを付けていた頃は本当によく助けて頂いた。
過ちは厳しく指導されたが、『怒る』のではなく『叱る』ことが出来る人だった。私を早い段階から教育名目である程度放置しよう、とする課長に向かって、
「お前さ、まだ在間さん一人にするのは早いんじゃないの。せめて傍で見ててあげないとさ」
と苦言を呈する唯一の人でもあった。
課長に向かって「お前」と言えるのは、大きな店で店長を、本部の教育関連の部門で部長を務めた経験のあるFさんだけである。

一方で機械やカタカナ語にはかなり弱く、ご年齢相応の戸惑いをみせるお茶目な一面もある。
ある朝出勤すると、作業台の上に「『シャンコード』間違えています」とFさんの字で麗麗と書かれたメモを貼った商品が置かれていて、プッと吹き出してしまった。正しくは『ジャンコード』(JANコード。商品識別コード、バーコードに印字されているナンバー)である。
私が笑っていたらMさんも、
「あ!ツボりますよね!私、Fさんだから遠慮してたけど、やっぱり笑っちゃいますよね?」
と笑う。
「Fさんって凛としておられるのに、こういうところありますよね。好きですねー」
と言ったら、Mさんは激しく頷いてくれた。

ある時私のレジに来られたお客様から、紳士靴についてのお問い合わせがあった。ちょっと専門知識が必要で、自分では答えられずFさんをインカムで呼んだのだが一向に応答がない。インカムの調子が狂うことはよくあるのでそうかもと思い、やむを得ず事務所にいる課長に来てもらって応対できたのだが、
「Fさん、どこ?いないの?」
と課長も探している。課長のインカムにも反応はない。やむを得ず売り場のお客様用呼び出しボタンを押すと、紳士靴コーナーの奥からFさんが、
「何?」
と渋面を作って出てきて下さったのだが、その姿を見て私は笑いを堪えられなかった。インカムが耳から外れてだらんと垂れ下がっていたのである。
「Fさん、インカムちゃんと装着しといて下さいよ」
課長も苦笑いしながら言うと、
「インカム?おっと外れてたか」
と慌てて耳に突っ込む。やっぱり『お茶目』だと思ってしまった。

超繁忙日のクリスマスイブ、私はいつものように早朝出勤だった。頼りになる課長は他店に出張で、私は十一時まで一人の予定である。ラッピングいっぱい来たら捌ききれるかなあ、と不安に思いつつ掃除をしていたら、
「おはよう、在間さん」
とFさんが出勤してきた。Fさんの出勤時間は大抵十一時からで、こんな早い時間は滅多にない。
「おはようございます。早いですね」
と言ったら、
「うん、今日は忙しいでしょ。早朝からラッピング来たら在間さん大変だと思ってさ、変更してもらったんだよ」
と仰った。
「わあー助かります!でもちゃんとインカム付けといて下さいね!」
と言ったら、
「わかってるって」
とニヤニヤされた。

しばらく経って、副店長がFさんのところにやってきた。何か話している。はっきりとは聞き取れなかったが、どうも最近情緒不安定なレジ係のSさんがこの日出勤するかどうか心配なので、私のサポートをするために早朝出勤を自ら申し出て下さったようだった。
何度も頭を下げる副店長に向かってFさんは、
「こういうのはさ、しょうがないよ。誰か上の人間がカバーするしかないんだからさ。課長も大変だろうけど、僕で出来ることがあるなら協力するから」
と言っていた。
元役職者だからって、それを振りかざすことはない。今は一ヒラ社員だが、中間管理職の苦しい状況を理解できる自分だからこそ、出来ることがある。いつでも使ってくれ。そういう思いやりが感じられた。

誰にも言っていないことだが、実はFさんは私の父にちょっと似ている。二十年ほど若いし、父は接客業なんておよそ向いていない不愛想な人なのでそこは違うが、背格好とか白髪の感じとか顔の輪郭とかいった外見が父の姿を彷彿とさせる。
三月まであと僅か。職場でお目にかかれるのもあと少しだと思うと、なんだか寂しい。私ってファザコンのきらいがあるのかな。