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日本一の山

子供の頃、音楽の時間に歌った『富士山』の歌詞には全然共感できなかった覚えがある。『頭を雲の上に出し』ている様子はなんとなく想像出来たが、あくまでも教科書や絵葉書の写真など、映像として切り取られた姿しか知らないから、その大きさや表情はよく想像が出来なかった。
だからこの歌を聴いても、歌っても『富士は日本一の山』なんて誰が決めたんや、他にも綺麗な山いっぱいあるんと違うんか、なんで富士山一択やねん、と妙な関西人根性が出て、ちょっと面白くない気分になったりしていた。

しかしこちらに来て、近所の高台から富士山を初めて眺めた時は、思わずその美しさに息を飲んだ。丁度最も富士山が美しく見える季節だった所為もあるが、子供の頃からの疑問だった『なんで日本一の山が富士山で決まりやねん』との思いは一瞬で氷解してしまった。
今は日本一の山は富士山でいい、いや富士山以外には考えられない、と思っている。
最近になって新幹線で関西を往復する機会が増えたが、車窓から眺める富士山もやはりとても美しい。家の近所から眺めるよりずっと距離が近いからか、迫力もあるし雄々しさも感じられる。
この季節は尾根に積もった雪の白さも際立って、何をしていても思わず手を止めてしばらく見入ってしまう美しさである。
富士山がよく見える所に列車が差し掛かると、あちこちの乗客が我先に、車窓越しの富士山を写真に撮ろうと腰を浮かす。年齢も国籍も性別も関係ない。皆申し合わせたように、
「綺麗!」
「凄い!」
「やったあ!」
という声をあげながら、スマホを手に夢中で撮っている。
私は最近慣れっこになってしまったのでもうやらないが、気持ちはよく理解出来るなあ、と思いながらそんな人達を見ている。

私には静岡出身の友人が数人いるが、彼らは一様に富士山の美しさを『自慢』する。その美しさを口を揃えて褒め称え、他の山なんて比べ物にならない、やっぱり富士山は日本一の山だ、と言う。
雪解け水の美味しさを力説するし、自然の豊かさを『自慢』する。富士山でないと山でないような口振りである。
こちらに来るまでは郷土愛どんだけ深いねん、と半分呆れつつ笑っていたのだが、実際に目にすると彼らの気持ちが大変よく分かった。こんな素晴らしい山が地元にあれば、自慢したくなって当たり前だろう。

富士山の何がこんなに魅力的なのだろう。他の山々とどこが違うのだろう。山好きの夫と考えてみたことがある。
夫曰く、先ず大きくて裾野が広い事だろう、という。確かに稜線のフォルムのバランスがこれ以上はないくらい絶妙である。
冬は雪の被り方も実に丁度良い。まんべんなく白いクリームを垂らしたようになっている。白い部分に太陽の光が当たっていたりすると、白さが一層際立ってなおのこと美しい。
『四方の山を見下ろして』という比喩にも納得させられる。山だけでなく、人間の住んでいる平野を静かに『見下ろして』、守ってくれているいるように見えてしまう。『母なる大地』などという言い方があるが、富士山は母というより『父』のように感じる。

高台に息を切らせながら登って、振り返って富士山を眺めると、私はいつも大きく背伸びして深呼吸した後、笑顔になってしまう。同じ山なのに、何度見ても毎回感嘆の声をあげてしまう。胸が感動でいっぱいになり、思わず手を合わせるようにして頭を下げてしまうのも、いつもの事だ。

今はこの山が日本にあって良かったなあ、と心から思える。この山がある日本の国民である事を嬉しく思う。
昔は『関東の山』だからと、なんとなく遠い存在のように思っていたけれど、身近に目にするようになって考えがすっかり変わった。
富士山は今や私にとって、誇らしい思いで見上げる雄々しく美しい山である。いつの日か関東を離れることになっても、それはずっと変わらない。