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高い空の似合う音

最近、あるトロンボーン奏者の演奏ばかり聴いている。聴いていると心が洗われるというか、大変落ち着く。深く深呼吸した後のような気持ちにさせてくれる。
中川英二郎さん。ご存知の方も多いと思う。多方面で活躍されている、名プレイヤーである。

私がこの人の演奏を初めて聴いたのは、NHKの朝の連続テレビドラマ小説『瞳』のテーマ曲(山下康介 作曲)だった。あまりにも綺麗な音で、これって本当にトロンボーンの音?トロンボーンってこんな音出せるの?とただただ衝撃を受けた。
どの楽器でもそうだと思うが、究極に上手い人の演奏を聴いていると、木管楽器の音なのか、金管楽器の音なのか、弦楽器の音なのか、下手すると人の声なのか、錯覚するような感じを受けることがある。中川さんの音はまさにそれであった。
温かい、伸びやかな音に、思わず涙腺が緩んだ。

中川さんはお父様が音楽家(ジャズのトランペット奏者と聞いている)である。お身内にも音楽家が沢山居らっしゃる。中川さんご自身は、小学生の頃からお父さんと共に演奏していたそうだ。
昔、バンドジャーナル(音楽之友社)という雑誌に中川さんが短いエッセイを連載されていたことがある。私のような素人にはびっくりするような内容も綴られていて、興味深かった。
一番驚いたのは、中川さんが子供の頃のエピソードである。
その頃、中川さんはサッカーをするのが大好きだった。友達と早く一緒にサッカーをしたいのに、お父さんは「スケール(音階練習)をさらってからにしろ」という。
一刻も早く遊びたい中川少年は、一つの策を考え付いた。
テンポ200(※一分間に200回打つテンポ)でさらえば、五分くらいで終わるからそうしよう!
で、ちゃんと実行してお父さんに「終わったよ!」と言って遊びにいったという。
『小学生』である。テンポ200で全調スケールをさらうのがどんなに大変か、分かる人にはわかるだろう。訳が分からない程凄い才能だと思う。お父様も内心、舌を巻いておられたのではなかろうか。

エッセイには悩みも書いておられた。
その頃中川さんはある音大で教鞭をとっておられたのだが、
「学生がなぜ『できない』というのか、僕にはわからない。何故かというと、僕は普通に出来てしまうからだ。だからどうやって教えたら出来るようになるのか、わからない。教えるのは本当に難しい」
という文章を書いておられたことがあった。読んだ時、この人は本当に天才型プレーヤーなんだな、と思った。
多くのプレーヤーは自分が苦労したポイントを知っている。そこをどうやって克服したか、その体験を元に教えることが出来る。だが、中川さんは『苦労』せずとも出来てしまう人だったということだろう。練習は勿論死ぬほどされているだろうが、その他大勢とは次元が違うのである。

実は関西にいた時、中川さんの生演奏を一度だけ聴いたことがある。
近所の中学校の吹奏楽部のコンサートに、スペシャルゲストとして来られたのを、部員の親御さんに頼み込んでチケットを融通してもらって聴きにいったのだ。
その演奏の素晴らしかったことと言ったらなかった。トロンボーンは中川さんの身体の一部みたいだった。『楽器を自在に操る』ってこういうことをいうのだ、と思った。
音を聴いた時、勝手に涙が溢れた。感動したから、とか綺麗だったから、とかではなく、条件反射みたいに涙が出たのである。心の中の深い部分にぐっと入り込んでくる、魂を揺すぶられる、そんな演奏だった。
一生忘れられないステージとなった。

心に温かい何かが欲しい時、私は中川さんの『瞳』を聴く。温かく、少しもの悲しく、清々しい音。そっと寄り添ってくれる音。
聴いていると心がとても澄んでくる。希望の光が見えてくるような気がする。
中川さんの音には、高い空が似合う。






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