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朝のいたちごっこ

朝の開店業務は色々ある。開店に間に合いさえすればどんな順番でやっても良いのだが、私はおおむね決めている。
まず、レジを開局する。レジを使用可能な状態に立ち上げる業務である。開店してすぐやってくるお客様もあるので、これは最優先の仕事である。
次に販促用のモニターやラジカセを起動させる。今は販促用のモニターが九台、ラジカセが五台ある。置いてある所がバラバラだし、上にあったり下にあったりで面倒な事この上ないが、スイッチを入れるだけだから、場所さえ覚えれば何と言う事はない。全てを稼働させるのに、五分もかからず終わる。
これが終わると業務連絡ノートに目を通し、インカムを装着しながら掃除を開始する。お掃除シートで床を拭いた後は鏡を拭く作業が待っている。

身に着ける物の売り場であるから、大小合わせて鏡は二十ばかりある。洗剤を使用して、備え付けの雑巾で丁寧に拭いていく。
商品の棚はそこそこ埃も積もるのでマメに拭かねばならないが、鏡は直接手で触ったりすることはないから、余程のことがない限り、そう汚れるものではない。
しかしそれはあくまでも『普段』の話である。

今は夏休み。お子さんが多い。お子さんのものは置いていない売り場だが、お母さんやおばあちゃんのお買い物についてきた退屈なお子さんにとって、鏡は格好の暇つぶしの道具である。
女の子はおすまししてポーズをとってみたり、髪をなでつけて気取って微笑んでみたり、見ていて可愛らしい。小さくても女性だなあ、と微笑ましい。
問題は男の子である。
両手をベターっと鏡に貼り付けて、うんと押して離す。当然鏡には手形がつく。面白くなってくるのか、いくつもいくつもつける。友達同士でつける。兄弟でつける。人数分×二の手形が押される。中には、十本の指の跡がずーっと地面の方まで長くついていることもある。
鼻をくっつけて魚拓ならぬ『鼻拓』を取っている子もいる。鼻の頭をくっつけてべチャーっとつぶす子、鼻の穴を鏡にくっつけて鼻息をフン!と出して遊ぶ子、タイプは色々だ。
ほっぺたをつける子も多い。右の頬をつければ、左の頬をつけたくなるのが彼らの習性らしく、何故か必ず二つの頬の跡がついている。手形と同じく、こちらも複数ついていたり、重なってついていることもある。
やめておいた方が良いと思うのは、鏡の自分に向かって熱烈なキスをしている子である。洗剤がまともに口に入るわけだから、きっと身体に良くないだろうと思う。こっちもやめて欲しい。でもなぜかこういう子は皆、無我夢中である。やむを得ず見守りながら、そっと雑巾の用意をする。見かければ、業務中でも立ち去ると同時に拭きに行くことにしている。バッチ過ぎる。
ピカピカに磨かれた鏡を見た彼らは、「さあどうぞ汚して下さい」と言われているような気がするのだろうか。

彼らは勿論、大人よりもずっと背が低い。従って鏡の下の方を汚す。普段は下の方なんて殆ど汚れないのだが、子供さんの休み中は違う。下の方ばかりが汚れる。なので夏休み中、私は屈んで拭いてばかりいる。
来客数が多い繁忙日の翌日などは、物凄い汚れ方である。
『鼻拓』の下には時折、カピカピしたものがこべりついていて、普通に拭いても取れない。これが何の痕跡であるか、は明白である。メラミンスポンジと洗剤を併用して落とすことになる。
『キス』の跡はグレープやイチゴなど、人工的な甘い香りがすることも多い。拭き取ると雑巾がなんだかお菓子のような匂いになる。鏡拭き用の雑巾はまとめて洗濯して使っているが、この雑巾はさようならするしかない。
子供とは言え、身体から出る脂は鏡にしっかりつくとなかなか取りづらい。しかも前日から時間が経っているから、乾燥して余計に落としにくくなっているので、綺麗にするのに一苦労だ。
だから夏休み中の鏡拭きはとても時間を食う。

朝から汗をブルブルかきつつ、二十枚近い鏡をこの調子で綺麗にして、お客様をお迎えする。そして次第に来客が多くなってきて、鏡のことなんて忘れてしまう。
そして翌朝いつものように鏡を拭きに行くと、またそこには新たなる犯人の『下足痕』ならぬ手形、鼻拓、キスの跡がある・・・。
夏休みの朝の鏡拭きは、小さなギャングたちとのいたちごっこである。







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