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独りご飯

夫が出張の為、一人で夕飯を済ませることにする。
好きなワイン、好きなおかず、好きなサラダ。時間を気にせずのんびりと至福の時を楽しんでいると、夫から『今日中に帰れることになった』との連絡が入った。
あ、そう。ちょっとガッカリするような。夕飯は食べてくるとのことなので、まあいいや、と気を取り直す。

のんびり食べていると、『オカンがまたパニックを起こしている、なんとかなだめてやってくれ』と仕事中の夫から再び連絡が入り、食事を中断して姑に連絡を入れた。
「おかあさん、大丈夫?」
「あ、ミツルさんか。大丈夫ちゃうねん」
姑は甲高い、緊張しきった声で喚くように言う。いつものパニック時の喋り方だ。
不安障害からくる、全身の痛みを切々と訴える。勿論本人は心の不調が原因だなんて思いもよらないから、ひたすら自分の考える身体の不具合の原因をこちらに分からせようとする。
「そもそも、K病院のリハビリの先生が無理させるからこんなことになったんや」
普段はのんびりした姑の口調が、今は激しく攻撃的である。
心のなせる業とは言え、聞いていると悲しくなってしまう。ちょっと前まではこんな風ではなかったのに・・・。

食べさしの夕飯を前に、電話越しに姑の話を聞きながらふと思う。
姑も今、届けられた一人用の弁当を前にしているのだろう。私は自分の食べたいものを食べ、飲みたい酒を飲んでいるが、姑の弁当のメニューは予め決められている。飲み物は薬の服用に差し障りのないものにせざるを得ない。
電話を切った後、姑は一体どんな気持ちで一人きりの夕餉の食膳に向かうのだろう。
そう思うと心が沈む。
『自分で作らなくて良いから、楽で良いですね』なんて、絶対に言えない。
面倒でも、栄養が偏っていても、自分の食べたいものを自分で気に入るように用意して食べるという行為は、人間の尊厳に関わるように思う。

孤独は自分が孤独だと思うことから始まる。
一人での食事も孤独だと思わなければ、羽根を延ばせるステキな時間だ。でも自分は孤独だと思っている人にとっては、それは拷問のように苦痛で過酷な時間になってしまう。
本来なら楽しみつつ、有り難いと感謝しながらする食事という行為を、ただ命を繋ぐ義務を全うする為に、頼りたくもない他人の力に頼って、たった一人で行わざるを得ない姑の気持ちを思うと、言葉を失くしてしまう。
感謝は心が満たされて初めて出来るものである。
カラカラに干からびた姑の心に、感謝の泉が湧く日が来るのは絶望的だ。

夫は姑とやり取りするのを面倒くさがる。所詮、何を話しても通じてはいない、話しても話さなくても同じじゃないか、こっちがイライラするだけだ、という。
姑の言葉は誰にとっても面倒で、同じことの繰り返しで、虚しいだけの、出来れば聞きたくないことである。残念だけど事実だ。
年寄りはそんなもの。相手にするだけ時間の無駄。どれだけ思い遣ってあげても、こっちの思惑なんてどこ吹く風。全く理解しようともしないんだから、放っておくしかないじゃないかー。
冷たいようだけれど、夫の言い分にも一理ある。

でも。
あと何十年かしたら、私も一人きりで食べたくもない、誰がどんな風に作ったかわからない弁当を、ただ時間が来たからという理由だけで食べ、治ることのない身体の不調をくだくだと周囲に訴えているかも知れない。
姑の今の姿は、いずれ行く私の姿と被る部分もあるだろう。年齢を経なければわからない気持ちというのはきっとある。
だから私は、姑を『ワガママ言うな!』と上から目線で𠮟りつける気には、どうしてもなれない。

どうしてあげれば良いんだろう。
どうすれば幸せそうな姑を見られるんだろう。
どうすれば周囲は疲弊せずにすむのだろう。

他人は思いどおりに出来ない。自分を幸せに出来るのは自分しかいない。でも姑がその事実を分かる日は、永遠に来ないだろう。
生きるってなんだろう。
姑の果てない繰り言を聞きながら、いつも私は深く考えさせられてしまうのである。