見出し画像

言うてみるもんだ

四月にH課長が他店に異動になってから、私は膀胱炎になってしまった。朝、売り場の掃除が済むと用具をバックヤードに片付けるのだが、その際にレジを空けねばならなくなる。H課長は掃除用具が長い間売り場にあることを嫌い、開店して自分の用事が済むと
「片付けてきて下さい」
と言う人だった。はじめはどうして私にわざわざ行かせるのかな、と思っていたのだが、その間に水分を補給したり、お手洗いに行ったりを済ませておいで、という暗黙の指示があったのだと思う。課長は男性だから、「トイレ行っておいで」とは言いづらかったのだろう。実際私はその通りにしていた。
だからH課長がいる間は膀胱炎にもならず、脱水でフラフラになることもなかった。

後任のK課長はレジが打てないものだから、こういう配慮がない。掃除用具が昼頃まで売り場にあっても平気である。というか売り場に降りてこないでずっと事務所にこもりきりなので、気にならないのだろう。
他には誰もいないので、私は四月からトイレにも行けず、水分補給も出来ないまま、正午頃まで我慢することになってしまった。
当たり前の流れで膀胱炎を発症し、脱水でフラフラすることも出てきた。でも誰もレジに入ってくれる人はいないから、どうしようもなかった。
加えてコロナも明け、客数は増える一方だから、業務は多忙だった。

人が足りないのは分かっている。課長はあてにできない。四人を午前、午後、夜に割り振らばならない。少しずつ被る時間はあるが、たった一人になる時間は誰にでもある。
ワガママを言うのはよくない。が、何より身体がしんどい。最近は帰宅するとぐったり横になったりしていたので、見かねた夫が心配して、
「そんなにしんどいならもう辞めろや。身体壊してまで行く必要ないんやぞ」
というくらいだった。真剣に転職も考えていた。もう限界かなあ、と思っていたのである。

だが一応働く者の端くれとして、労働環境の改善はお願いしてみても良いかも、と思った。ダメもとで、色んな人にしんどい現状を訴えてみた。
売り場の同僚のMさんには、身体の不調を正直に話した。レジ教育係のGさんには、朝の多忙さを訴えた。この二人はもともと私をずっと心配してくれて、何かと気を配ってくれていたので、変に遠慮することなく話すことが出来た。
二人共私の訴えを真剣に聞いてくれて、改善するように上に話をするからね、と約束してくれた。
信じて待つことにした。

父の日の前日、いつものように一人で売り場に居ると副店長のHさんがやってきた。
「おはようございます。時間かかったけど、なんとか人繰りつけたからね。一人きりにはもうしないから。今日はまだだけど、私手伝うからインカムで呼んでね。きっと父の日ラッピング多いでしょう?」
聞けば二階の衣料品のメンバーから、一人の社員を一階の私達の靴売り場に異動させることにしたのだという。Iさんといって、ご家庭の事情で夜しか勤務できないことの多い人だ。この人を夜の勤務にし、今入っているDさんを私の居る午前勤務に異動させることに決まったそうだ。
午前勤務が二人になる。ワンオペ解消だ。大変ありがたく、ホッとした。

以前いたレジ係のSさんは、自分の要望を臆せず次々と上に直訴するので、
「何様だと思ってんの?」
と陰口をたたかれていた。ずっとそれを聞いていた私は臆病風に吹かれてしまい、なかなか自分の辛い現状を言い出せずにいた。
しかし身体の不調は我慢しない方が良いに決まっている。若ければ無理もきくが、もうそういう年齢でもない。限界まで頑張ってしまうと、また後が大変だ。
ひょっとして自分の手際や要領が悪いから不調をきたすまで我慢することになるのかな、なんてことも思った。それだと自分の責任である。なんとか上手に色々出来ないか、考えてみたが、せいぜい脱水にならないようにレジにこっそりマイボトルを持ち込む(本当は規定違反である)くらいしかできなかった。

Sさんの「ワガママ」は感心できないが、私の要望はそれとは違うのだと自信を持って判断することが長い間出来なかった。言うか言わないか、随分迷った。でも「自分は今しんどい」「困っている」と正直に訴えたおかげで、周囲が考えてくれた。急に異動になったIさんには申し訳ないが、やっと「私」を楽にしてあげることが出来た。
言うてみるもんだ。

「良かったですね!」
Mさんがとても喜んでくれた。Mさんによると、いつも手伝いに二階から駆けつけてくれる社員のKさんとNさんも
「あれでは在間さんが大変過ぎる。誰か午前にせめて一人、補充しないと」
とH副店長に常々話してくれていたらしい。
ちゃんと見ていてくれる人がいたんだな、と嬉しく、有難かった。

良い職場で働けて、幸せだなあと感謝している。