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悲しみの表し方

私の幼馴染にKちゃんという子がいる。すぐ近所の雑貨屋さんの娘で、私より一つ年下だった。弟はウチの妹と同い年だし、家は四軒離れているだけだったので、小学生の頃まではほぼ毎日のように一緒に遊んでいた。
Kちゃんは手先が器用で、よく蓮華やシロツメクサの花冠を編んでくれた。編み出すと集中してしまい、全く口をきいてくれなくなるのだが、私達はそんなことを気にもせず、Kちゃん抜きで遊んでいた。
「できたでー」
という彼女の声で遊びは中断され、みんなわっと彼女を取り囲んで、かわるがわる花冠を被ってみたりして遊んだ。彼女の編んだ花冠は凄く丈夫でしっかりしていて、そのまま乾かしてリースに出来そうなくらいだった。
自分は被るでもなく、みんながはしゃぐ様子を満足そうに眺めて静かに笑っている、Kちゃんはそんな子だった。

Kちゃんが小学校一年生に上がる直前、Kちゃんのお母さんが病気で亡くなった。まだ三十代になったばかりだと聞いた。
「『入学式を見たかったわ』って言うてはってね・・・」
近所の人と一緒に病院へお見舞いに行った母は帰ってきて泣いていたが、それから本当にすぐのことだった。
葬儀の日、Kちゃんの家には大勢の親戚が集まっていた。Kちゃんは手持無沙汰な感じで、ガレージで一人、シャボン玉をして遊んでいた。なんだか結構ケロッとしている風に見えた。
お母さんが死んだらわあわあ泣いて悲しむのが普通なのに、Kちゃんは泣きもしないで楽しそうにシャボン玉なんかしている。人がいっぱいいるのが楽しいのかな。私は不思議でならなかった。思わず口をついてこんな言葉が出た。
「ねえ、お母さん死んだのに悲しくないの?」
Kちゃんはシャボンを吹くのをやめて、眉根を寄せて目を伏せた。
「悲しいに決まってるやん」
ぼそっと抑揚のない声で、呟くように言った。
私は多分それまでの人生で初めて、激しく後悔した。何も言えなくなってしまった。

Kちゃんはその後暫く、親戚の家をあちこち転々とした。九州だったり、信越だったりしたようだ。私達は貴重な遊び友達を失って、がっかりだった。
やがて、Kちゃんのお父さんが新しいお母さんを迎えた。Kちゃんは弟と一緒に家に帰ってきた。
私達はまた一緒に遊ぶようになった。
Kちゃんの新しいお母さんはお金持ちだった。Kちゃんと弟は見違えるように良い服を着るようになり、すっかり垢ぬけた。Kちゃんは前よりずっと幸せそうに見えた。

Kちゃんが四年生くらいの頃、近所に妙な噂がたった。Kちゃんのお母さんが、夜中に公園の公衆電話で長い間喋っている、というのである。泣いているのを見た、という人もいた。お父さんとうまくいっていないらしかった。
そんなある日、私はKちゃんの部屋に遊びに行った。Kちゃんの学習机の上には亡くなったお母さんの笑顔の写真が飾ってあった。
「あのババア、これ捨てようとしやがってん。お母さんの作ってくれた服も、『貧乏くさい』っていうて捨てやがってん」
Kちゃんの目は怒りに燃えていた。そんな激しいKちゃんの言葉を聞くのは初めてで、私は内心驚いてKちゃんをみていた。
お母さんが家を出て行ったのは、それから間もなくのことだった。

中学生になると、Kちゃんとは疎遠になってしまった。
Kちゃんの家はKちゃん以外は男の所帯になり、随分荒れた感じになった。
Kちゃんは中学校を卒業すると、全寮制の看護学校へ進学したと聞いた。お父さんはそれからしばらくして亡くなった。

その後随分時間が経って、私がもう一児の母になった頃のことである。
実家の近所の公園から道路に飛び出してきた男の子を、ウチの母が偶然、間一髪車の目前で抱き留めたことがあった。
「ボク、危ないよう!飛び出したらあかんやろ!あんた、どこのおうちの子?」
母が訊くと、
「あっち。お母さんはな、看護師さんやねん」
と男の子は得意そうにKちゃんの家を指差した。母はあっと思ったらしい。
間もなくKちゃんがやってきて、にこやかに母に礼を言った。
結婚して、二人の男の子の母親になっていること。弟に会うのと、家の整理の為に月に一度くらい帰ってきていること。看護師として、県の施設で働いていること・・・。
Kちゃんはしっかりした穏やかな口調で、母に話してくれたそうだ。
「ご両親もきっと天国で喜んではるわ」
母が言うと、Kちゃんは照れたように黙って笑っていたという。

悲しみの表現には色々な形があるということを、まだ幼くて知らなかったとはいえ、随分デリカシーに欠ける発言をしたものだと思う。我ながら恥ずかしい。悲しみからの立ち直り方も、その道のりも人それぞれであるということが理解できるようになったのも、随分最近のことだ。
今ならKちゃんもあの時の発言を、笑って許してくれるだろうか。