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カレンダーをめくる時

父方の祖母は晩年、リュウマチを病んで二十年以上寝たきりのまま亡くなった。京都の北の方の田舎町で一人暮らしをしていた祖母の異変に、最初に気付いたのは父だった。
ある日、出張のついでに祖母宅に寄って帰ってきた父は、いつも以上に無口で静かだった。こういう時父は疲れていることが多く、うっかり騒ぐとロクなことにならないのを経験上知っていたから、その日は早々に二階の自分の部屋に退散した。
翌朝起きて、朝食を摂る為に台所に降りて行った。
「おはようございます」
といつものように両親に挨拶した。母は背中でおはよう、と返してくれたが、その様子にどこか落ち着きがないのを、私はなんとなく感じ取っていた。
だが私にとって祖母はいつまでも元気なおばあちゃんでしかなかったし、小学生には「老い」がどういうものか、なんて途方もなく遠い話題だったから、祖母の異変など想像もつかなかった。
一体どうしたのかな、とちょっとひっかかる、そんな程度だった。

それから俄かに我が家は忙しくなった。
父は祖母を入院させる手続きを東京にいる兄に託し、自分は祖母のこまごまとした家の片付けを請け負った。
ウチから祖母の家まではかなりの距離があったが、祖母の入院後暫くして、一家四人で片付けの為に車で出かけた。その頃には祖母の病状が深刻であること、家にはおそらくもう戻れないだろうということ、等が私達子供にも知らされていた。
祖母のいない祖母宅に行くのは勿論初めてだった。ちっともワクワクせず、妙に緊張していた記憶がある。いつもの帰省なら賑やかにはしゃいでお目玉をくらう私達も、神妙に黙っていたから車中はずっと静かだった。

祖母の家は茅葺屋根だった。以前泊まった時、そろそろ葺き替えの時期なのだ、今度葺き替えたら次はもうワシおらんで、誰かに頼みや、と職人さんに言われた、と祖母が笑っていたのを思い出した。
ずっと元気でいるつもりだったのだ。畳の上にばらばらと散らばっている萱の切れ端が、悲しかった。
小さかった頃には見上げることもなかった天井には太い梁が黒く光っていた。体調の悪さを誰に漏らすこともせず、黙って一人床に臥しながら、祖母はどんな気持ちでこれを見上げていたのだろう、と思った。

後に母から聞いた話である。
あの日、私達が寝静まった後、父は母に祖母の様子を話した。
「おふくろがっ・・・」
そう言って父は男泣きに泣いたそうだ。
「『しんどい』なんて一言も漏らしたことのないおふくろが・・・自分で布団敷いて、昼間っから寝とった・・・」
母は初めて見る父の涙に、大変驚いたそうだ。そしてこれはただ事ではない、と思ったという。
父はその日のうちに、兄弟全員に連絡を取ったのだった。

誰も居ない祖母の家の柱に、日めくりカレンダーがかかっていた。随分前の日付になっていたので、めくろうとすると父は私を止めた。
「それはそのままにしといてくれ」
家のカレンダーは気が早すぎると思うくらい、せかせかと先にめくってしまう父が、おかしなことを言うなあ、と不思議に思って手を止めると、
「おばあちゃんがここに居た最後の日付やから」
と静かに言って、父は少し微笑んでカレンダーを見た。
私は何も言えなくなってしまった。

その後祖母は東京、和歌山、東京、と転院を繰り返し、最終的には東京の施設で生涯を終えた。享年九十六歳。私の結婚式の一カ月前だった。
孫はみんな遠くに散らばっているし、既に全員社会人だから、葬儀には来なくて良い。ミツルちゃんの結婚式も、気にせず予定通りやってくれ。子供達だけで送ってくれれば良い。家の処分は長男に任せる。
それだけのことをちゃんと遺言していたそうだ。最後まで、しっかりしていたと聞いた。
叔父は祖母の意向を汲んで、家を地元の人に売却し、そのお金で祖母の法事や墓のことを全て取り計らった。残った分は年に一度、兄弟が集まって祖母を偲びながら食事する代金に充てている。
皆随分歳は取ったけど、毎年恙なく全員顔を揃えているらしい。祖母も草葉の陰で喜んでいることだろう。

家にあるカレンダーをめくる時、あの時見上げた天井と、父の穏やかな顔をふと思い出すことがある。