『恐れ』の淵
昔に比べれば随分マシになったとは思うのだが、今でも時折夫から
「なんでお前はオレをそんなに怖がんねん?」
と悲しそうにため息をつかれることがある。
そんな時はただ申し訳なく、
「そんなつもりないんやけど・・・」
と言葉を濁して俯くしかない。
夫としては『責めてるつもりはないのに、自分がまるで妻を虐める意地悪な夫になったみたいな気がする』そうで、非常に面白くないらしい。そのうち本当に怒りだしてしまいそうになるのを、一生懸命我慢することになるので、非常にイライラするそうだ。
しかし、私に『怖がっている』という自覚はハッキリとはない。『そういわれればそうかもしれない』という、否定しきれないおぼろげな感覚があるのは認めざるを得ない、といったところである。
私の中には、深い深い『恐れ』の淵がある。
幼少期の私が、父の激しい折檻から自分をなんとか守ろうとし続けてきた所為だろう。
理由がわからなくても、取り敢えず『ごめんなさい』と言っておく。心では思っていなくても、『もう降参です』という怯えた態度を見せる。そうすれば、少しでも自分が傷つくのをマシにすることが出来る。
そういう自己防衛本能が、私に染み付いているのだ。
だから夫が少し不機嫌になったり、威圧的(ととられかねない)な態度を取ったりすると、この本能のスイッチがいち早く押されてしまう。
自分の意思とは全く関係ないから、厄介である。
恐れから取る行動の結果は、あまり喜ばしいものにならない。これは私に限ったことではなく、人の世の道理である。
恐れは自発的な意思ではなく、他律的な義務を生み出す。そこから取る行動に、感謝や腹の底から沸き上がる喜びが伴う訳がない。相手に対する恨みと、自分の意思を蔑ろにされた虚無感、自己の存在意義に対する強烈な疑問が生まれるだけだ。
恨み、虚無感、自己の存在意義に対する疑問というのは全て、人が生きていこうとする気力を蝕む。
そして『恐れ』ている人の身近な人達をも、不快な気分にし、不幸にする。この人達もまた、『恐れ』る人々を生む。早いうちに誰かが気付いてストップをかければ止まることもあるが、それは大変な労力を必要とする作業になる。
恐ろしいことに、この負の連鎖が、国を揺るがす程の大きな事態を引き起こしていく。
戦争の発端は元を正せば、皆こういった小さな小さなきっかけによるものなのだ。
自分達の生きる世界を幸せなものにしたいと願うなら、先ずは自らがこういった『恐れ』を生み出さないことだ。
『恐れ』からくる行動がロクな結果を生み出さないことは、太古の昔から変わっていない。人類の普遍の原理である。
『自分一人くらい』『家族だから大丈夫』などと言ってはいけない。生み出しても良い『恐れ』など皆無である。
力で人を屈服させることは出来ない。表面上は出来ても、心までは無理である。
そんな非効率なことをするよりも、一旦相手の言うことに耳を傾け、白黒の判断を下すことなく、『そういう意見』として脇に置く。
自分より遥かに若く非力な相手であったとしても、相手が明らかにおかしいと思える時であっても、相手を尊重し、そういう意見があるんだ、ということをただ認める。
わかって欲しいという思いがあるなら、力で押さえつけるのではなく、とことん話す。必ず分かってくれると信じる。
もどかしいこともあるだろうが、大抵の場合大丈夫だと思う。
『恐れ』がこびりついていると、人は分かりやすい『自己有用感』を外の世界に求めがちだ。
自分で自分を受け容れられていないと、これが手っ取り早く自分の心に空いた穴を満たしてくれるからである。
しかし残念ながら、自分で自分を満たさなければ、この穴はどれだけ埋めても広がるばかりなのだ。
生涯かけて、この深すぎる淵を埋めていく。私が今為すべきはこれなのだ。
多分、私が死ぬまで終わることはない。気の遠くなるような作業だが、この世に別れを告げるその日まで、のんびり気長にやっていこうと思っている。