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しつこくてスイマセン

今日は晩酌が出来ない。風呂に浸かることも出来ない。
親知らずを抜歯したからである。
幸い今のところ、重怠い感覚はあるが痛みはない。この感覚も多分、徐々に薄らいでいくだろう。

大昔親知らずを土台にして架けたブリッジの辺りが、数週間前からどうも嫌な感じで、歯をちゃんと磨いてもまるで磨いていないような不快感に悩まされていた。
直近の検診の時、かかりつけの歯医者に相談したのだが、『お掃除が上手に出来ていなんじゃないですか』と言われたのみだった。
掃除は毎日気を付けて行っていたし、私は素人ではあるがなんとなくそうではない気がして、セカンドオピニオンを受けるつもりで、思い切って別の歯医者に診てもらうと、
「恐らく、ブリッジの中のセメントが少しずつ流れ出て、そこから被せた歯が虫歯になっているんだと思います」
と言われてしまった。
現状と、今後の治療方針についての丁寧な説明にすっかり満足し、ここで親知らずにサヨナラしよう、と決めたのである。

二回にわたって、各一時間の大作業が私を待っていた。
一回目はブリッジを切断する治療。一番奥の歯の為、結構キツかった。先生は自分の眼鏡を私の唾液で目一杯汚しながら、綺麗に切り離して下さった。
麻酔もして下さったし、歯そのものは痛くなかったのだが、なんせ一番奥なので、顎が疲れる。先生が機械を突っ込む時に、唇がぎゅうぎゅう押さわって痛い。
でも必死で格闘して下さる先生に、そんなワガママはとても言えず、こっそり耐え忍んでいたら、
「あ、唇痛かったですね。すいません。痛い時は仰って下さい」
と謝られる。
しかしこの状態で手を挙げたりすれば、歯そのものが痛い、と誤解されてしまうだろうし、先生の手を止めるのも申し訳なさ過ぎるので、涙目で数回頷くにとどめた。
無事にブリッジは切断され、親知らずは根っこを残して応急処置された。

さて、懸案の親知らず。抜くか抜かないかは次回決めましょう、と言われていたが、高齢になってからこんな奥の歯を引っこ抜くと、きっと寿命を縮めるに違いない、と思っていたので、先生に如何なさいますか、と訊かれた時は
「抜いて下さい」
と一も二もなく即答した。
すると先生は
「じゃあ、今日抜いてしまいますか?」
と訊く。
迷ったが、歯医者というのはあまり何度も来たくない場所である。
ええい、もういいや、と思い、
「ハイ、お願いします」
と答えてしまった。
「大丈夫ですよ、そんなに時間はかからないと思います」
と先生は軽く仰ったので、私はすっかりそのつもりになっていた。

ところが、私の親知らずはなかなか頑固だった。
途中まではすんなりと抜けていた。ところが、一部が妙な感じで引っかかるようにして生えており、その部分がどうしても抜けない。
先生は懸命に頑張って下さる。
「動いてはいますからね。もう少しですよ」
と励まして下さる。私の方が先生を同じ言葉で励ましたくなるくらい、先生は奮闘して下さっている。
このもう少し、を何回聞いたか忘れてしまうくらい、抜歯は難航した。

台の上に寝そべってなす術もない状態は、出産の時を思い出した。
自分ではどうにもならず、処置が終わるのを待つしかない。自分の力を振り絞る必要は ないけれど、今の私はあの時に匹敵するくらい、かなりしんどい状態だと思った。
私の歯に先生が手こずっているせいだろう、診察を受けに入ってくる患者さんに、他のスタッフが
「お待たせしてすいません」
と謝っている。私が入ってきた時にはもう一人しか患者さんは居なかったのに、いつの間にか診察台は全部埋まっていた。
先生は悪くない。こちらこそ、しつこい歯ですいません、と心の中で他の患者さんに謝っておく。

小一時間かかって、漸く歯が抜けた。
先生は抜いた歯を見せて、丁寧に説明して下さる。
「出血も多くなかったし、無事に抜けましたからね。ちょっと予想外に大変でしたが」
そういって笑顔を向けて、血だらけの歯を見せて下さった。
ああもう、本当にスイマセン。

治療を終えて精算を待っていると、スタッフの一人が私服に着替えて、飛び出してきた。かなり焦っている様子である。
急いでるなあ、と思いつつ見ていると、彼女は入り口から走り出て、外に置いてある自分の自転車を慌ただしく動かすと、大急ぎで飛び乗って去っていった。
後ろに子供が乗せられるタイプの自転車だった。きっと私の抜歯が長引いた所為で、お迎えの時間に遅れてしまったのだろう。
お子さん、お母さんを長いこと引き留めて、本当にゴメンね。
心の中でなおも謝る。

会計は千四百五十円。
先生、労力に見合ってませんよ。本当にこれで良いんですか。
皆様、しつこい歯に手こずらせて、スイマセンでした・・・。