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ことばにすると生み出されるもの、失われるもの

私は仕事柄、物事を言語化し表現し、誰かに伝えることをよく求められる。十分にできているかと言えばそんなことはないが、普段の仕事の影響で、日頃の些細な事項でもふと言語化して、自分の中で理解を促したり、客観的に物事を見つめられるようにしてしまう癖がある。

でもふと、立ち戻って、本当に言語化が必要なのか考えさせられるシーンが時々ある。

本当に言語化が必要なのか?言語化することが目的になっていないか?

と自分の中で問いかけるのだ。この問いは面白いし深いと最近思って、よく考えている。

そもそも私たちはなぜ言語化していたのだろう?

言語化がもたらす効果や便益について考えることで、なぜ言語化を我々は行い、自分達の考えたものや自分の頭の中にあるものを表現しているのかを考えてみたい。

言語化かもたらす効果や便益は、私が考えるに2つある。

  1. 自分の考えや思考が言語を通じて表現されることで、言葉を受け取る人に考えや思考が伝わること

  2. 曖昧な自分の考えや思い、悩みを言葉にすることによって、自分の頭から思考を切り出し外部化でき、客観的に自分の悩みや考え、思いを観察できること

要するに、意思の伝達・疎通・表現と、思考の整理の2パターンである。もっと抽象的にまとめると相手が自分か他者かの違いしかないため、1つにまとめることもできそうだが、役割が違うため2つにしておく。

結局のところ、この二つの目的のために言語化しているのだろう、と今の所の私は考えている。

言語化は本当に必要なのだろうか?

言語化が本当に必要な時だけ、言語化する。それが最近の私の考え方であるし、周りの人に教えてもらったことでもある。

ただ、私は根本的には言葉にしたいタイプで、どんな複雑な事象も、芸術作品も最終的には言葉で表現したくなってしまう。必要かどうかは置いといて、言葉にしたい、そう言うタイプである。

でも、言語化してしまうことで失われるものもある。その空間や物、人が持っている印象や雰囲気、温度感、そういった文字や言語では表現できない、テクスチャーのようなものが確実に失われる。

また、言語化することで、不確実な状態を楽しんでいたものが楽しめなくなってしまう。例えば、アートのようなものの場合、人によって違う感じ方があって、それを交換することやその人に見えたビジョン(見え方)を共有することこそに価値があるのだが、「この作品は〇〇ものである」と説明してしまうと、アートの捉え方が確定してしまう。

ある種のバイアスでもあるし、不確実で曖昧であることによって生み出されていた良さが消されてしまうし、何より粋ではない。だから結局、言語化というツールが本当に適切であるのかを判断し、適切であればクールに使い、そうでないなら不確実なまま置いておく、それが重要なのだろうと思う。

言語化は素晴らしい、となんとなく思っていたけど、そうではないかもしれない。そんな揺らぎを与えてくれるとても良い問いであるなと思った。

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