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建築を経験すること─『ル・コルビュジエ全作品集』のレイアウトを通して

新型コロナウィルス感染拡大による緊急事態宣言が発令されてから約3ヶ月が過ぎた。2020年6月6日現在では解除されているが、まだまだ気が抜けない状況である。

私はもともと東京都内にある建築設計事務所SANAAに所属していたが、基礎疾患を抱えているためこの状況下において都内で働き続けるにはリスクがあまりに大きく、実家がある青森県弘前市へ一時的に帰省しテレワークを行っていた。
自粛生活を続けている間、テレビやスマホの画面から日々伝えられる急速な社会情勢の変化や、もともと私たちが抱えていた社会問題が激しく顕在化しているような状況を目の当たりにし、居ても立っても居られなくなり、先日退職を決意し、個人としての活動を始めることにした。

とは言え、急に事務所を辞めてしまったため特に当面やることもなく、また自粛生活が続いているため外出して建築を見に行くこともあまりできず、悶々とした消化不良の日々を過ごしている。

建築設計を生業とする者として、毎日の生活が自宅の中でほぼ完結してしまう状況というのには、やはりある種のもどかしさを感じてしまう。
一般的に建築は実際に訪れて内部空間を感じ取ってこそ「建築を経験した」と言えるし、逆に訪れたことのない建築について語ることは幾分難しいところがある。

そんなことを考えているうちに、
今、建築に実際に訪れることが難しい状況で、建築を経験することはできないのだろうか?
あるいは、実際に訪れなくても「経験した」と言えるような建築を作り上げることはできないのだろうか?

というぼんやりとした問いが、頭の中に浮かんできた。

現在のようなパブリックな場に出て行くことや他者と空間を共有することが難しいような状況においても、建築を経験すること、あるいは、経験できるような建築を制作することは、できるのだろうか?

ル・コルビュジエにとっての"建築"

青森に帰省する際、滞在期間が何ヶ月続くか全く予想がつかなかったため、スーツケースにはお気に入りの本をパンパンに詰め込んだ。

その中には近代建築の巨匠ル・コルビュジエの有名な著書も何冊か入っており、久しぶりに手にとって読み直してみることにした。
すると、彼の主要な著書の一つである『モデュロールI』の冒頭に、こんな一説が書いてあった。

「建築」という語はここでは次の意味をさす:
家屋、宮殿ないし社寺、船舶、自動車、車輌、飛行機などを築く術。
家庭または生産または交換に関する設備をすること。
新聞、雑誌または書籍の印刷の術。※1

彼の著書は建築を学んだことのある人なら大抵は読んだことがあると言っても過言ではないだろう。だからこそこの一節を取り上げるのは「今更なこと」かもしれないが、ここには何か重要な問いが隠れているように感じた。

彼にとって"建築"とは、私たちが一般的に使っている意味でのそれとは異なり、何かより広い概念を表しているように思えるからだ。

特に着目したいのは最後の一行で、彼にとっては「新聞、雑誌または書籍」、つまりメディアそのものも"建築"なのである。

(これ以降、ル・コルビュジエにとっての概念としての建築という言葉を、一般的なものとは区別して"建築"と表記する。)

『ル・コルビュジエ全作品集』を"建築"として見てみる

『ル・コルビュジエ全作品集』とは彼が生涯取り組んだ建築、絵画、彫刻、あるいは建築や都市に関する理論や研究など、ありとあらゆる仕事がほとんど網羅されているバイブルのような書籍である。

全8巻で構成されており、彼が亡くなった後に出版された最終巻以外は、彼自身が図版を選び、レイアウトまで決めたと言われている。

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(『ル・コルビュジエ全作品集 第1巻』の原著)

先ほど引用した一節によると、彼にとっては書籍自体も"建築"なので、この作品集もまた"建築"である、ということになる。

そこで、普段私たちが建築作品を分析するような手法によって、つまり、平面に現れている形の比率や寸法を読み取ったり、複数のマテリアルの関係性に着目したりなどすることによって、この作品集を分析し、設計意図を探ってみることにした。

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(『全作品集』の図版の比率や寸法を測る※2)

『全作品集』を分析しながら、彼のその他の著書と関係づけることによって、考察を行った。
発見したことはいろいろあったが、中でも特に重要だと感じたのは以下の3点である。

1. レイアウトのグリッドは縦:横=4:5の比率に基づく
2. 各寸法は「モデュロール」にほぼ一致する
3. 断片的な説明の寄せ集めで内容を構成している

では、それぞれの分析内容を具体的に説明していきたい。

1. レイアウトのグリッドは縦:横=4:5の比率に基づく

まず手始めに、図版のレイアウトを決めるためのフォーマットの分析から行った。

1_基本グリッド

(『ル・コルビュジエ全作品集』における基本的なグリッド※3)

この作品集には全体を支配する強力なフォーマットがあるわけではなく、上の図のように、いくつかの基本的なグリッドの組み合わせによって、作品の内容に応じてあたかも即興的にレイアウトが行われている。
(また、場合によってはグリッドを大胆に崩しているページも見受けられる。)

そしてこの複数の基本グリッドは、4:5の比率を有した四角形の組み合わせによって構成されていることに気がついた。

では、4:5という比率は何によって決まっているのだろうか?
最もわかりやすいのは、下図の基本グリッド:2×2のタイプである。

2_2x2グリッド

(2×2の基本グリッド※4)

1ページに4枚の写真が、ページの外形と調和し、無駄な余白が無く効率的に配置されている。
ページの外形の比率は4:5であり、各写真の比率も4:5になっている。

もし仮にこれらの写真がレイアウトの際にトリミングされていないとすれば、この写真は大判フィルム4×5in判によって撮影された可能性が高く、よって、基本グリッドおよびページの外形もその比率に合わせて設計された可能性が高いと言える。

また、『モデュロールI』ではル・コルビュジエ自身が彼の絵画作品の構成原理を解説している部分があり、そこに載せている絵画のキャンバスの外形の比率もまた、ほぼ4:5であることがわかる。
なお、これは規格F40(803:1000≒4:5)を使っているためだと考えられる。

スキャン 6月 10, 2020

(ル・コルビュジエの絵画の構成原理※5)

以上より、『全作品集』におけるレイアウトの基本グリッドは、写真と絵画の既成の規格に合わせて設計された可能性が高いと考えられる。
そこにはまるで、私たちが既製品の規格に合わせて建築のモデュールを考えるような、ある種の合理性、実用主義的な考えがあるように思える。

2. 各寸法は「モデュロール」にほぼ一致する

では、各要素の具体的な寸法は、何に由来し、何を根拠に設定されているのだろうか?

前項で引用した絵画の構成原理に関する記述の中で、この平面上の造形は幾何学的な基準線(レ・トラセ・レギュラトゥール)によって設計されており、それが後に「モデュロール」の探求に繋がったということを彼は述べている。

「モデュロール(Modulor)」とは、ル・コルビュジエが考案した、メートル法やヤード・ポンド法に代わる新しい寸法系である。

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(「モデュロール」の図※6)

黄金比とフィボナチ数列を組み合わせた寸法の数列であり、西洋人の標準的な体型をもとに、ヘソの高さh=1130mmを起点とした数列と、挙手をしたときの最高点の高さh=2260mmを起点とした数列の2つを作成し、これを用いて建築に限らず建具、家具、絵画、彫刻、出版物など、あらゆる工業製品を人体と関係した寸法によって設計しようという試みであった。

『モデュロールI』の中では彼が実際に「モデュロール」を実践した仕事がいくつか解説されており、その中には出版物を取り扱った際の話も記述されている。

スキャン 6月 10, 2020 (2)

(ル・コルビュジエが雑誌のレイアウトを担当した際の検討図※7)

これは『ラルシテクチュール・ドージュルドゥイ』という雑誌の1948年春の特集号に200の図を割り付ける仕事であり、雑誌の大きさ:310mm×240mmという寸法が与件としてあった。
与えられた雑誌の大きさ(建築に置き換えると、敷地の大きさと言えるかもしれない)に対して、配置する図に「モデュロール」の寸法によって数種類の大きさの典型を与え、紙面上に配置していったことがわかる。

これを踏まえると、『全作品集』の設計においても「モデュロール」は用いられているのではないかと思い、確認してみることにした。

3_モデュロールグリッド

(モデュロール・グリッド※8)

上の図が分析した際に用いた図面である。
手始めに建築設計に用いるCADソフトを起動し、「モデュロール」の寸法によるグリッドを作図した。

『全作品集』においてはヘソの高さを起点とした「赤の列」を用いているか、挙手をしたときの最高点の高さを起点とした「青の列」を用いているか、あるいはその両方を用いているのかわからなかったため、

1. 縦横ともに「赤」のグリッド
2. 縦横ともに「青」のグリッド
3. 「赤」と「青」を組み合わせたグリッド

以上の3種類を作図した。

4_モデュロール確認

(モデュロール・グリッドに『全作品集』の図版を並べる※9)

そして『全作品集』をスキャンして各図版をトリミングし、上の図のようにグリッド上に並べることで縦と横の寸法を確認した。

すると、前述した『全作品集』における基本グリッドの中にあらわれる全ての四角形が、縦横ともに「モデュロール」に由来している可能性が高いということがわかった。
結果として全ての四角形をはめ込むことができたグリッドは「赤」と「青」を組み合わせたグリッドであり、すなわち、縦方向には「青」、横方向には「赤」の寸法が用いられていると考えられる。※10

この方法によって、『全作品集』は、無駄な余白なく効率的に図版を配置し、ある一定のルールは共有しながらも、ページの多様性も確保する、というデザインにたどり着いていると言えるのではないだろうか。

3. 断片的な説明の寄せ集めで内容を構成している

1.と2.の分析によって、『全作品集』における数値的な設計の根拠はある程度理解できたと思う。

では次に、ページや図版がそれぞれ示す意味、すなわち本の内容的な部分について考えたい。

まず前提として、本というメディアで建築のプロジェクトを発表するときの、一般的なプレゼンテーションの構成を確認したい。
『新建築』や『GA JAPAN』のような雑誌を見ればわかると思うが、プロジェクト毎の基本的な構成は下記のようになると思う。

1. 建築全体の様子がわかるような外観写真
2. 建築の設計コンセプトを説明するための概要文
3. その他(内観写真、各種図面など)

つまり最初に建築全体を説明する写真とテキストがあり、その後適宜必要な図版で補足していくというのが、一般的な手法である。

ちなみに、Googleで「サヴォワ邸」と検索したときに上位に出てくる画像のほとんど全てが、建築全体を写した外観写真である。
当たり前のことかもしれないが、建築を理解しようとする時に、いかに私たちが全体的な外観というイメージを重要視しているかがわかる。

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(Googleで「サヴォワ邸」を検索したときの結果)

では、これに対して『全作品集』はどうだろうか?
同様に第2巻の「サヴォワ邸」を例にとって見てみたい。

「サヴォワ邸」については9ページが割かれており、写真、図面、スケッチ、テキストによって解説されている。

実際に原本を手にとって確認して頂きたいが、1ページ目は2階のテラスの写真で始まっており、建物の全体像がわかるような写真は4ページ目で初めて現れる。
また、最初のテキストは建物の計画概要というよりも、既存の敷地の状況について叙情的に述べられていたり、「建築を歩いて鑑賞すること」を抽象的に考察しているような内容になっている。
つまり、最初に建物の全体像を示すという方法は意図的に避けられているのである。

また、建築の形態に関することや、内部で住み手が経験するようなことについては、一つのテキストでまとめて記述するのではなく、いくつもの断片的なテキストに切り分けられ、それぞれの図版にキャプションとして載せられている。

ビアトリス・コロミーナが『マスメディアとしての近代建築─アドルフ・ロースとル・コルビュジエ─』の中で、ル・コルビュジエのメディアの使い方について重要なことを述べている。

ル・コルビュジエの本では、写真が再現的に使われることはまずない。その代わり、それは決して融合することのないイメージとテキストの衝突の作用子なのであり、イメージとテキストの緊張関係から意味がもたらされるのである。このテクニックにおいて、ル・コルビュジエは近代広告から多くを借り受けている。つまりイメージ同士の重ね合わせや、イメージと文章の重ね合わせを通じて生じる観念の連合だ。
(中略)
ル・コルビュジエの本では、イメージはテキストを「図示する」ために用いられているわけではない。むしろそれはテキストを構成しているのである。※11

ここで指摘されている通り、『全作品集』においても、写真とテキストの間には主従関係が無く、対等な関係性によってストーリーを構成しているのである。

つまり、この本においては、いくつもの小さな断片的なシーンの連なりによって徐々に建築のコンセプトを理解していくような形式になっており、それはまるで、ル・コルビュジエが考える建築の鑑賞方法、「歩きながら鑑賞する」という考え方そのものを表しているようにも考えられるだろう。

建築としてのメディア、メディアとしての建築

これまでの『全作品集』の分析と考察によって、この本の設計思想、または彼が提案する生活のイメージの表現の方法が、彼の建築作品そのものと非常に似通っているように思えるだろう。

ル・コルビュジエという建築家にとっては建築もメディアもある生活のイメージを提案・表現するという点においては同じものであり、実際に作品そのものを見ても設計思想的・表現手法的に共通点が多いことがわかった。

ビアトリス・コロミーナもこの一節を引用しているが、ル・コルビュジエは『建築をめざして』の中で、下記のように述べている。

どんなときでも、直接的であれ、あるいは新聞やレヴューといったメディアを通してであれ、我々は目を引くような目新しさに囲まれている。モダンライフが作り出すこれらすべては、長い時間をかけて、やがて近代的な精神状態となろう。※12

この言説を踏まえてみても、彼にとっては新聞や広告のようなメディア自体も、建築と同様に「近代的な精神状態」を培うための一つの表現方法のようなものだったのではないだろうか。

ここで今一度、冒頭で引用した『モデュロールI』の中の一節を振り返りたい。

「建築」という語はここでは次の意味をさす:
家屋、宮殿ないし社寺、船舶、自動車、車輌、飛行機などを築く術。
家庭または生産または交換に関する設備をすること。
新聞、雑誌または書籍の印刷の術。※1

つまり彼にとって"建築"とは、「近代的な精神状態」を培うための技術そのもので、もっと抽象的に言えば、マテリアルと寸法系によってある概念を構築するための技術のことを言っているのではないだろうか。

彼は建築を設計するのと同じように、本も設計した。
そして『全作品集』を見てもわかるように、そこには、まさに近代建築的な合理性と寸法系が与えられていたのである。

冒頭に「6月6日現在」と書いたが、この論考を書き終わる頃には6日が経ってしまった。
東京では小池都知事が「東京アラート」の解除を宣言し、飲食店等の営業時間も一部緩和になるらしい。
またあの街には以前の活気が戻るのだろうか、あるいは何かが変わったまま時間が進んでいくのだろうか。
本当に目まぐるしく私たちを取り囲む環境は変わっていくが、今の自分が社会に貢献できることは何だろうかと、日々考えている。

ル・コルビュジエが生きていた時代とは違って、メディアは私たちにとってより身近な存在になった。
その中で、私たち建築家は、日々発する言葉ひとつひとつを、"建築"の一部として大切に表現できているだろうか。
あるいは一人の社会人として、声を上げなくてはいけない問題に対して、きちんと向き合って言葉を発せられているだろうか。
50年以上も前に生涯を終えたこの先人に学ぶところは未だに数多くあると思うが、そういう建築家としての振る舞いも大切にしながら、今後の活動を考えていきたい。

※1 ル・コルビュジエ著, 吉阪隆正訳, モデュロールI, 鹿島出版会, 1976, p9
※2 筆者撮影。
※3 筆者作成。原図はLe Corbusier著, Le Corbusier et Pierre Jeanneret oeuvre complète 1910-1929, Les Éditions d'Architecture, 1964より。
※4 筆者作成。原図はLe Corbusier著, Le Corbusier et Pierre Jeanneret oeuvre complète 1910-1929, Les Éditions d'Architecture, 1964より。
※5 ル・コルビュジエ著, 吉阪隆正訳, モデュロールI, 鹿島出版会, 1976, p144
※6 Le Corbusier著, Le Modulor, Birkhäuser Architecture, 2000
※7 ル・コルビュジエ著, 吉阪隆正訳, モデュロールI, 鹿島出版会, 1976, p109
※8 筆者作成。原図はLe Corbusier著, Le Modulor, Birkhäuser Architecture, 2000より。
※9 筆者作成。原図はLe Corbusier著, Le Corbusier et Pierre Jeanneret oeuvre complète 1910-1929, Les Éditions d'Architecture, 1964より。
※10 検証の過程で、寸法誤差数ミリ程度は許容している。原著が出版された当時の技術的な精度が不正確であるためである。また、 A.D.A. EDITA Tokyoから出版された日本語版は全体のサイズが原著より少し大きいので、今回はオリジナルを尊重するという意味で原著の方を素材とした。
※11 ビアトリス・コロミーナ著, 松畑強訳, マスメディアとしての近代建築─アドルフ・ロースとル・コルビュジエ─, 鹿島出版会, 1996, p92-93
※12 ビアトリス・コロミーナ著, 松畑強訳, マスメディアとしての近代建築─アドルフ・ロースとル・コルビュジエ─, 鹿島出版会, 1996, p103


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