徒然日記2020.08.25
今日は終日在宅ワークの日、朝からzoomで会議だった。机の上に卵サンドが作ってあって、おいしい朝食だった。会議をしていたらすぐに昼になって、昼は簡単にカップラーメンで済ませた。妻は昨晩寝られなかったようで、一日辛そうで横になっていた。結局、夕方まで会議のハシゴで一日家に居たものの、なぜか凄く疲れた。妻も疲れがたまっている様子で、お互い元気をつけたい!と家族で焼肉を食べに行った。塩タン、ハラミ、ハツなどをビールで流し込み最高の夕食だった。夕食後は食べ過ぎたので、少しウォーキングをしたが、上の子も疲れていて、すぐに帰宅した。今日は家で会議中に、上の子が帰ってきて、やはりテンション高く私に報告しようと部屋に突進してきたが、今日も相手ができなかった。しかし、昨日の反省もあり、会議の合間にすぐに上の子のところに行って、話を聴き、褒めてあげた。一瞬のことだったが、こういうことを大事にしていきたい。帰宅後は寝かしつけも割とスムーズに終わり、21時頃からはそれぞれの時間を楽しんだ。妻は今日もnoteにハマっていて、絵を投稿しているようだ。楽しそうでなによりだと思う。私は、ニュースを見ながらyoutubeで新型レヴォーグのアイサイトXの体感動画を見ていた。かなり良さそうだ。一度、試乗したい。ほとんど日産などが出来ていることはやれそうだ。さすが技術のスバルだ。
さて、私は最近このnoteでの投稿を機会に、寝る前に因果律で縛られている精神を非因果的連関のエピソードを頼りに解すということをやっている。そうすると凄く眠りも良いし、精神がリセットできる。今宵も非因果的連関のエピソードを探して引用したいと思う。
今日探したエピソードは、非因果的連関とは少し違うかも知れないが、臨死体験の一つのエピソードである。死後の世界を知っていること、この重要性について思いを馳せたい。
「とても不思議な経験をしたんです」
40歳の女性の方です。
診察中、病歴をお聞きしていたところ、急に、私を真正面からじっと見つめ、思い切ったように話し始めました。
「交通事故にあって、救急車で病院に運ばれたんです。意識が無くて、その時のことは何も覚えていないんですけど…。とにかく、そのあと、脳外科で緊急手術になったんです」
彼女は、瞳をキラキラさせ、にこにこしながら話を続けました。
「その間、夢を見たんです。部屋が6つくらいあるところにいて、私は、一番奥の部屋に通されました」
「部屋に入ったら、白いきれいなおじいさんがいて、あなたはまだ来てはいけないよと言われました。それで、部屋を出なくてはいけなくなりました」
「でも、そこはとても気持ちのいいところだったんですね。わたしは部屋の奥まで行きたいなと思っていたんです。でも、出なくてはだめ、戻りなさいと言われたので、部屋を出ることになって…。それでその後、目が覚めたら、病室にいたんです」
「目が覚めたとき、主人に、夢で見たことを全部話しました。うんうんって、聞いてくれて」
「あれは臨死体験だったのだろうと思います。とても気持ちのいいところでした。戻りたくないって思いました」
「あれから、同じ体験をした人に何人か会いました。みんな行ったところは、いろいろで、お花畑だった人とか、大きな川だった人もいます。でも、とても気持ちのいいところだった、というのは同じなんですね」
「主人やお友達に、死ぬときはこわくないし、さみしくなんかないんだよって話しています。とても気持ちのいいところなんだよって言っています。みんなも、そうなんだって思ってくれてるみたいです」
とても貴重な話で、聞き入ってしまいました。
催眠療法のなかで、過去世での死の場面を経験する場合がありますが、
みなさん、この方と同じような感覚を口にします。
「とても気持ちがいいです。平和で穏やかな気持ちです」
「一人ぼっちでなくなったけど、さみしいというような感覚はありません。とても静かで、穏やかな気持ちです」
催眠療法の後に感想をお聞きしますと、
「死の場面は怖いのかと思っていたら、そんなことは全然なくて、とても気持ちがいいのですね」
と話された方もいらっしゃいました。
今回、話してくださった女性の方は、周りの人たちに、その貴重な経験を語るなど、勇気があると思います。
また、それ以上に、彼女の話を真剣に聞き、受け止めた周りの人たちにも感心しました。
彼女は、いい人たちに囲まれて幸せだなって思います。
死を特定の教義によって説明するのではなく、ともかく虚心にその現象を見ようとするとき、いろいろと不思議な現象━共時的現象━が生じることについては、第三章に述べた。その点について、キュブラー・ロスは死後の世界を信じているのではなく知っていることを強調する。しかし、ここで彼女は意識の次元での取り違いをしているように思う。深い意識の次元で「知った」ことを、浅い意識の次元の事実として語っているのではなかろうか。ケン・ウィルバーの図式で言えば、「心」のレベルおいて死後の世界は存在するだろう、というより、そこでは生と死の区別さえなくなるのである。しかし、死後の世界の存在について、キュブラー・ロスは「自我」のレベルで語っている。あるいは、そのような誤解をひき起こすような語り方をしているように思われる。
河合隼雄(1994).
河合隼雄著作集第11巻 宗教と科学.
臨死体験はともすると河合隼雄の言うように、自我のレベルで語ることにより、誤解を引き起こすことがあるという。今回の体験談は不思議な体験であるが、自我のレベルで語っているとも言える。もっと深い意識で考えると、この方が体験した意識の深層というのは、西田幾多郎の言った純粋経験、主客合一の世界を体験したと考えるのはどうだろうか?そのような世界は、まだ生も死も、あらゆるものが分別する前の状態。無分別智の神髄であるとも言える。臨死体験によって、その世界を垣間見た方が、自我のレベルで言った感想が、
「とても気持ちがいいです。平和で穏やかな気持ちです」
「死の場面は怖いのかと思っていたら、そんなことは全然なくて、とても気持ちがいいのですね」
ということなのかもしれない。
一日の終わりに、「死」というテーマに対してのエピソードを感じることが出来るのは素晴らしい気分だ。死の世界は主客合一で、とても気持ちが良い世界だと、体験した方は知っている。そんなことを思いながら日記をおわる。
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