映画鑑賞録『浅草キッド』(劇団ひとり監督)
年末年始の長期休暇のために、Netflixに入会。一番の目当ては劇団ひとり監督の『浅草キッド』を鑑賞するためだ。
年末年始のドタバタからひと段落して、皆が寝静まった今晩楽しんだ。これからはネタバレを含む、映画鑑賞録を書こうと思う。
ビートたけしという芸人ができるまでの物語と言っていいだろうか。浅草のストリップ劇場であるフランス座で、深見千三郎という師匠の芸に惚れ込み、エレベーターボーイから修行した若き日のビートたけし、深見千三郎という師匠は何と言ってもカッコいい、忘れられないセリフがある。
「笑われるんじゃねぇぞ、笑わせるんだ」
客に媚びないで、自分の芸を知らしめて、笑わせる。これは芸人だけではなく、生き方としてとても魅力的だ。私は周りに媚びて生きてきた部類の人間であるが、最近になって、自分というものの矜持が出てきたところである。媚びて生きてきた時は、文字通り「人の顔色を伺って」生きてきた。だから常に周りの人の反応が気になって、自分の思ったことができない。最近になって、生きているということは、自分の思い通り好きな事やって良いんだと気づいた。その思いに至るまで、紆余曲折あった。ビートたけしが叩き込まれた芸人の矜持は、むしろ生きるために必要な真理なのかもしれない。
この映画には数々の名場面があったが、タケシが師匠のタップシューズを履いて、閉店後の舞台で素晴らしいタップを披露し、それを師匠が気づいて観ていて、怒られたあと、お前の履いたシューズなんていらねぇからやるよ!金は払えよ!と言ったあとに、タケシが初舞台に呼ばれるシーンは最高に良かった。
フランス座というストリップ劇場が、時代の波に逆らえず、経営難に陥っているにも関わらず、師匠が弟子の帰宅に合わせて偶然会ったように装って、毎晩食事をご馳走したり、とても粋な深見千三郎に惚れてしまう。さすが、あのビートたけしが惚れた芸人だ。居酒屋から帰る時に、師匠の靴を差し出したタケシに、違うんだよこの(隣客の)ハイヒール出すんだよ!普段ボケれないやつが舞台でボケれるか?と叱責するシーン。これは芸人の真髄かもしれない。
最後は涙なしでは見れなかった。師匠がタケシに惚れ込み、フランス座を離れたあとも、影で気にかけていたことなどを東八郎から聞かされたり、師弟愛と言ったらいいのか、師匠の葬儀でもボケるタケシと、師匠に叩きこまれた芸がシンクロして泣けてきた。
冒頭に書いたことをまた問う。
「媚び売って生きてんじゃねぇよ!自分の好きに生きろ!」
私がこの映画から受け取った一番の哲学は、おおよそこのようなことだ。私は最近になって人の顔色を伺うことをやめた。やめたと言うとカッコいいが、やめるまでは大変だった。何せこれまでにずっと人の顔色を伺って生きてきたもんだから、身体が人の顔色を伺うことを覚えている。だから何かコトが起こればすぐに、顔色を伺うモードになってしまう。だからまずは仏教的なアプローチ、マインドフルネス、瞑想、坐禅でそのモードから脱出する修行を行った。私にはこの修行が合っていて、徐々にそのモードから抜け出すことができた。
伊藤亜紗さんの『手の倫理』(講談社選書メチエ)という本には、道徳と倫理の違いについて語られていた。ルールブックありきで、それに違反しているかどうかで判断する「道徳」という観念は、静的な思想で、ルールは変わらない。対して、倫理というのは、常に正しいか問い続ける姿勢であり、正しさは時間の経過とともに動的に変化していく。静的な思想と動的な思想。周りのルールにビクビクして、顔色を伺っている古い自分を捨て、正しさが常に変化していくという哲学をもとに、古い時代のルールをぶっ壊して新しい世界をクリエイトしていく。
アナーキスティックな思想に惹かれて伊藤野枝という自由に生きた人の本を読んだこともあった、『村に火をつけ、白痴になれ』(岩波書店)
私の中での「自由」というものを獲得するまでに、瞑想したり、本を読んだりして、『媚びを売る生き方』から『自由に生きる』ことを身体に叩き込んだ。媚を売る生き方が身体に刷り込まれていた私だから言いたいのだが、『自由に生きる』ということは簡単ではない。本当にその自由の真髄を実行できるように変わるためには、とても時間がかかる。
だが、「自由」というものを、本当の意味で理解して、自由に生きれるようになれば、世界というのはこんなにも素晴らしいものなのかと思える。図らずも大好きな劇団ひとり監督の『浅草キッド』を観たとき、深見千三郎がタケシに教えた芸人の矜持のなかに、自由に生きるという哲学を垣間見たのであった。
良き年始の映画鑑賞であった。
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