短編小説 『イエロートラム』 〈第3回〉
ジュリオとゴードンは五〇四号室内のすべての部屋を確認した。どこにもグレイ夫人の姿はなかった。バルコニーに通じる扉も開けられた形跡はなかった。もしかすると足りない食材に気づいて買いに出かけたのかもしれない。そうなるとソファに座ったふたりの脇を抜けて、部屋の入り口まで行く必要があるわけだが、もしかすると会話に気を取られていて気づかなかったのかもしれない。その結論でたがいを納得させたふたりは、シャンパンのグラスをキッチンに片づけてから五〇四号室をあとにした。夫人が鍵を持って出たか心配だったが、必要ならフロントに声をかけるだろう。
ふたりは五階の廊下を、上ってきた階段とは反対方向にまっすぐ歩いていた。しっかりとクリーニングの行き届いた赤絨毯が、ふたりの足音をしぼりとるように吸収していく。いちど角を左に曲がって、正面突き当たりにあるのがダンスホールとして使われていた大広間だ。広間の入り口には重厚な茶色い両開きの扉がはめられており、着飾った若い男女がいまもそこを出入りしてそうだった。でもそれは先の大戦が始まる前のことだ。左側の壁にかかった銅板の銘は、そこがいまもまだ〈ザ・ピンク・ハウス〉であることを、航空会社の古い広告に使われていたような字体で宣言している。先に扉の前に立ったジュリオはポケットから鍵束を取り出し、そこからいちばん古い真鍮の鍵を選り分けてから、振り返ってゴードンの顔を見下ろした。ゴードンは無言でうなずいた。
鍵は小気味よい音を廊下に響かせて開いた。冬眠動物が春とまちがえて、みんな穴ぐらから出てきそうな小気味よさだった。ジュリオは鈍く光るノブをつかんで片側の扉だけをゆっくりと開き、そのまま扉を背にしてゴードンのほうに向き直った。「いま電気をつけますから、先にお入りください」
ゴードンはジュリオの前を横切って室内に入った。入り口のアーチは充分に高く、動物園のキリンでも首を伸ばしたままくぐれそうなほどだった。室内は圧倒的な闇だ。時間が監禁されたかのようにしんとしていて、廊下の灯りは室内に届かない。まるで光を拒絶することで、内部の空間を時間の浸食から守っているようだ。ゴードンが暗闇のなかに完全に同化してしまうのを見届け、ジュリオは重い扉をそろそろと閉じ、壁際にある照明のスイッチをオンにした。
ぶうんといううなり声をあげて部屋が息を吹き返す。広間は建物三階分の吹き抜けになっていて、さながら巨大なゴシック教会のよう。南北が百三十フィート、東西が百フィートほどの長方形をしている。いまふたりがいるのは、西側の長いほうの壁面だ。向かって右手、南側の壁には採光のための大きなフランス窓が四枚はめられていて、いまは天井から床まで届くピンクベージュのカーテンで塞がれている。室内の壁は全体が薄ピンク色に塗られていて、〈ザ・ピンク・ハウス〉の名はそこからとられたと伝えられている。
「実にいい色ですね」ゴードンがため息をもらす。
「当ホテル開業当時から変わらない色です。いまも倉庫にこの色のペンキ缶が山積みに保管されているんですよ。あと百年は使えます」この台詞を言うときは、なんだか歴史の証人になったようでいつも誇らしい。ジュリオは広間の中央付近にたたずむゴードンに近づいた。
窓の反対側、北面には開口部分がなく、ピンクに塗られた壁と、扉と同じ堅い木材を使った調度品があった。ダンスホールだった時代、そこにはバーカウンターがあったためで、壁の一部が奥まったアルコーブになっていて、マホガニーの棚がしつらえられている。現在はそこを大きなスクリーンで隠すことができるようになっていて、必要に応じて映写機を投影することだってできる。広間のこちら側はパーティーや会議などでメインステージとして利用されることが多く、いまは組み立て式の簡易ステージが設営されたまま残されている。
天井の中央にはマリア・テレジア型の巨大クリスタル・シャンデリアが一基、その南北には同型でやや小ぶりなシャンデリアが一基ずつ据えつけられているのだが、いまどきそれだけでは光量が充分ではないので、柱ごとにブラケットランプが取りつけられている。西面の壁に点滅を繰り返すランプが一灯あったので、ジュリオは心のメモに遅番への申し送り事項として追記した。
ジュリオのとなりで部屋を観察していたゴードンだったが、彼の意識はもっぱら東面の壁に奪われているようだった。灯りがつくまでは周囲同様の闇だったその空間は、ジュリオが灯りをつけたいま、全面が高さ十フィートほどの鏡張りになっていることがわかる。ダンスホールだったころの名残だ。ペアが踊りながら、自分たちのダンスを肉眼でチェックできるようにするとともに、フロアの面積を倍に感じられるようにもしている。後者の効果については、貸しホールとなったいまも充分に発揮してくれている。
「この部屋でよろしいのですか?」ゴードンの真横に立ったジュリオが、鏡越しにその視線をうかがう。ゴードンの目線が左右を何度か往復し、正面に映った自分たちの像に戻ってくると、彼は鏡像のジュリオの目をまっすぐに見据えた。
「ああ、ここだ。こんなにせまかったんだな」
🚃
ジュリオはこのホテルの歴史に敬意を抱いているが、個人的な思い入れがあるわけではないので、「せまい」と言われても誇りを傷つけられることはなかった。それで「ひとが多くいるときのほうが、かえって見通しよく感じるものなんです」と自らの経験から得た所感を伝えた。
「そうかもしれないな」ゴードンの記憶がゴミ箱をごそごそとあさっているのが鏡越しに見えた。
「むかし、振付師をされていたんですよね?」五〇四号室の会話を思い出し、ジュリオは尋ねた。「当時はさぞお忙しかったんでしょう」
「売れっ子だったからね」悪びれもせずに言ってカンカン帽の向きを直し、「いろんなミュージカルや映画に参加したよ。そうやって名を上げていくうちに、やがて競技ダンスの世界から声がかかった。若い選手たちが、流行りの振りを取り入れたいって指名するんだ。私としては、流行ることよりもオリジナルであることを目指していたんだけどね。なぜか受けがよかった。でもだんだん、私の身体を素通りして、その向こうにあるものを差し出せと言われているような気がしてきた」
そのときジュリオは、生家の天井裏に隠したバタークッキーの缶のことを思い出した。缶のなかに雑誌から切り抜いた映画スターたちの写真が入っていたからだ。たしかフレッド・アステアとジーン・ケリーのどちらが踊りがうまいかで、弟と一か月間口をきかないほどの喧嘩をしたんじゃなかったっけ?
「そのころに指導を開始したのが、デイヴィッドとアグネスのペアだった。デイヴィッドはとにかく技術力を要する振りを要求した。自分たちにしかできない、自分たち独自の技を。それで世界を圧倒しようとしていた。いっぽうアグネスは、ダンスを見たひとがすぐに自分でもやってみたくなるような、斬新かつシンプルな振りがいい、と希望した。『だってダンスは私たちの所有物じゃないんだから』。私に言わせれば、人間の所有物ですらないがね。まあともかく、その時点でふたりがいっしょにやっていくには無理があったんだ。最新型の電動ミシンとベティ・ブープがいっしょにブロードウェイに立つようなものだ。それでも私はなんとか妥協点をさぐり、ひとまず中間地帯をふたりの目標に定めた。なぜかそれで州大会を勝ちぬくところまでいった。私の向こう側にはまだ差し出せるものがあるのかと、われながら嫉妬したよ。でも幸運はそこまでだった。所詮機械とカートゥーンでは、テンポとリズムがちがったんだ。そもそも動かすためのしくみがてんでちがうんだから」
「そしてバーの事件が起こったんですね」ジュリオはとなりに立つリトル・ゴードンをじかに見た。
「もしふたりが全米大会にペアで出場していたら、会場となっていたのがこの〈ザ・ピンク・ハウス〉だった。私はその大会のために新たな振りを用意していた。技術力と共感性の落とし所をねらったものじゃなく。自分をすり抜けたファウスト的世界から手に入れたものじゃなく。自分の内側の声に最大限耳をかたむけて作った。あの夜、バーでデイヴィッドに相談していたんだ。『全米大会ではまったくちがった振り付けで行こうと思う』と。最初は彼も喜んでいた。だが詳細を説明するうちに『そんなものはダンスじゃない』と怒りだした。私は必死に説得したよ。ふたりのダンスには何があって、何が欠けているのか。私はダンスのデモを収録した8ミリフィルムを持ってきていた。とにかくいちどこれを見てくれと言った。これを見れば考えが変わるはずだから、と。だがデイヴィッドは『もし地獄が凍りついたとしても、到底受け入れることはできない』と言った。一字一句たがわずそう言ったんだ。そしてカウンターの上からフィルム缶を払いのけた。バスケットに盛られたフレンチフライがいっしょに飛び散ったよ。彼はそれらを一瞥すると、バーボンをあおって突っ伏してしまった。私は日をあらためて説得することにした。そしてアグネスに電話をして、彼を迎えに来てくれるように依頼した」
ゴードンは天井を仰いだ。何かが動く気配を感じて、ジュリオも天井を見上げた。大きく張りめぐらされたシャンデリアの枝の先、紡錘形のクリスタルガラスのひとつに、一匹の蛾がとまっていた。蛾はオレンジ色の羽に描かれた一対の黒い瞳で、フロアに立つふたりをものめずらしげに眺めていた。
「いまなら、デイヴィッドにも彼なりの思考の末に結論があったことがわかるんだ」蛾に気づいていないのか、ゴードンは正面の鏡に目を戻しながら言った。「裁判で検察官に動機を訊かれた彼は、『だれもができるようなことでは、勝ち続けることなど到底できない』と供述した。だがそれは陪審員の日常生活に寄り添うような答えではなかった。有罪判決を受けた彼は収監されたのだが、塀のなかでも勝ち続けることを信条にしたおかげで模範囚とはいかず、いまだに出られずにいる。アグネスは退院したあと、慈善活動を通じてグレイ夫人の息子と出会い、子どもを望めない体であることを打ち明けた末に結婚した。結婚生活は順調だったが、夫がマカオで大成功を収めると、財産をどうするかという問題が生じた。それで五年前、ふたりは花地瑪堂区の孤児院を訪れ、中国系のリンダを養子に迎えいれた」ゴードンはジャケットの内側に右手を差し入れた。「いま、遠いベトナムの地で、あるいははるかな月を目指して、若者たちは勝つことを国民から期待され、なかば義務づけられている。なぜなら独立からずっと、合衆国は勝利を続けてきたからだよ。そう思うと裁判での彼のことばがよみがえってくるんだ。われわれは、悪魔にしか踊れないダンスをかろうじて踊り続けているんだって。いつまでもこんなことを続けてはいられない。どこかでダンスをやめないといけない」
ジュリオはニューヨークのエリス島に降り立った日のことを思い出した。大西洋の向こうから、ずっと思い焦がれていたあこがれの国。そこにたどり着けばすべてがうまくいくと信じて疑わなかった日々。実際にたどり着いてしまえば、そこがましかどうかは程度の差でしかなかった。
ゴードンはジャケットの内ポケットから丸い缶ケースを取り出し、それに視線を落としていた。「もしここでふたりが踊っていたら、全米大会で私のダンスを披露していたとしたら、それを目撃したひとが勝ち続けることの無意味さを理解してくれたかもしれない。そう考えたら、私にはまだやれることがある気がしたんだ。このフィルムはあのときデイヴィッドに見せるはずだったものだ。当時の私が編みだした渾身の振り付けが収められている。それを、いま、ここで上映してほしい」
そう言ってゴードンが差し出したフィルム缶はところどころにさびが浮き上がっており、ラベルシールにはフレンチフライの油が染みを残していた。
(最終回に続きます)
illustration by Yuka Yamato