見出し画像

短編小説 『イエロートラム』 〈最終回〉

割引あり

 ジュリオは倉庫からほこりをかぶった映写機を運んできた。それを簡易ステージの手前に据え付ける。ゴードンが缶ケースを開け、なかからフィルムの巻かれたリールを取り出し、映写機のアームにセットする。フィルムの端を数インチ引き出し、電源を入れてからスリットに挿入すると、するりと吸い込まれて機器背面から吐き出された。それを後部リールに巻き取ったゴードンは、ジュリオが壁面のスクリーンを下ろし、広間の灯りを消すのを待ってから、映写レンズのピントを調整した。

「このまま始めよう」かがんでいたゴードンが立ち上がり、映写機のうしろに移動した。ジュリオもそのとなりに移動する。

「私ひとりが見るだけで、本当に世のなかが変わりますかね」ジュリオが疑問を口にした。

「正直に言うと、きみである必要はない。大事なのはこの場所で披露されることなんだ。そうすることで世界の構成要素が少しずつ組み変わっていく。きみの役目は、変化のきっかけがここ〈ザ・ピンク・ハウス〉でおこなわれたということを、観測する存在であることだ。観測者なければ事件なし、だ」

 ジュリオは闇に浮かぶゴードンの頭を見やってから、そういうものかといちおう納得し、スクリーンに視線をもどした。白い布に照り返された光で、ふたりの真剣な表情が大広間の闇に浮かび上がる。受光器である四つの瞳が、光を受け止め、同時に反射し、これからスクリーンに映し出される事象とのあいだに、進化論的なつながりを生み出そうと待ちかまえている。ゴードンが映写スイッチを入れる。

 スクリーンの光は単純に﹅﹅﹅明るいままだった。フィルムのコマとコマをまたぐ黒枠のせいで、わずかに画面は明滅する。だがその程度の変化しか及ぼさない。ジュリオは映写機を見た。前部リールから後部リールにフィルムは順調に送られている。モーターが回転する音も聞こえる。だがスクリーンには何の映像も浮かんでこないし、何の音声も聞こえてこない。こんなものでいいのだろうか? かつて人類は、夜空に浮かび上がる月にさまざまなイメージを思い描いたものだったが、ホテルの大広間の闇に浮かび上がる銀幕は、単純な﹅﹅﹅光を浴びせるだけでは人類の想像力を喚起させないのだ。シャンデリアのところにいた蛾がいつの間にかその単純な光に引き寄せられていたが、起きた変化といえばそれだけだった。

 何かがおかしい。そう思ったジュリオは、ゴードンのようすをうかがった。映写機のスイッチを調整しているような音がかすかに聞こえたが、機械の陰になっていてその姿は見えなかった。ほのかな煙草のにおいがした。ジュリオはしばし調整の結果を待つ。しかしスクリーンの表面にあいた矩形の窓の光は変わらない。ジュリオは台の上に放置してあったフィルム缶を手にとって、光の当たるところでラベルの文字を確認する。《DとAのためのダンス》と書かれている。「ダンス」という単語のところにハインツの染みがついていて、その下に「一九二九年十月」と記されている。何の変哲もないブリキの缶だ。ジュリオはふたをひねってみる。さっきゴードンが開けたばかりなので、さほどの抵抗もなく開く。なかには当然何も入っていない。

 ふたを閉めようとしたそのときだった。背後からざわめきが押し寄せてきた。ジュリオが背にしている東面の壁際からだった。思わず振り返る。その瞬間、映写機のモーター音しか聞こえていなかったジュリオの耳が、けたたましいホーンの響きで満たされた。

ここから先は

3,418字

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?