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短編小説 『イエロートラム』 〈第1回〉

 男は、フロントがいちばん閑散とする午後二時過ぎにやってきた。長期滞在している五〇四号室のグレイ夫人の傘を、ジュリオが直しているときのことだった。

「失礼。このホテルにはダンス室がありますよね」

 男は、カウンターからようやく頭がはみ出るくらいの身長だった。斜め上に向かって声を張りあげるかたちで、質問というよりは事実確認をしたがっていた。たしかに、当ホテルにはダンス室がある。

「たしかに、当ホテルにはダンス室がありますよ。正確には元ダンス室、ですけれど。一九二〇年代にチャールストンが流行ったときに設置されたダンスホールで、いまはおもにパーティー会場や大会議室として使われています」ジュリオは骨と骨の継ぎ目の接合を何度もたしかめてから傘を閉じ、男を観察した。年齢は六十代半ばといったところか。太めの黒い縞模様が入った薄グレーのジャケットに、白いスラックス。ネクタイとチーフは目が醒めるくらいに青い。頭にはカンカン帽を載せている。ジャケットのボタンをいちばん下まで留めている点がユニークと言えばユニークだが、それ以外に不審なところはない。

「その部屋を見せてもらえないだろうか?」男が上目づかいに懇願する。「チップははずませてもらうよ」ジャケットの内ポケットに入っている何かを、外側からぽふっとはたく。どうやら硬貨ではないようだ。

 ジュリオはしばし思案した。チェックインの開始まではまだたっぷり一時間はある。グレイ夫人の傘の修理は完成した。そして夫人の部屋と元ダンスホールの〈ザ・ピンク・ハウス〉は同じ五階にある。したがって傘を返却してからホールを案内し、当ホテルの逸話などを多少披露して戻ってきたとしても、同僚に迷惑はかけないだろう。

「かまいませんよ」チップ欲しさからと思われないよう、できるだけ事務的な笑顔を男に差し向けると、ジュリオはメモ用紙を取り出し、「お客様ご案内中。すぐに戻ります」と書きつけ、セロハンテープでカウンターの内側に貼りつけた。

「では参りましょう。申し訳ありませんがエレベーターが故障中なので、五階まで階段を使いますね」

🚃

 男のユニークさは階段を上がる身のこなしにこそ凝縮されていた。ジュリオは数段上を先導しているので、じっくりと観察できるわけではないのだが、やけに動作が小さいようなのだ。背が低いから動きも小さい、というのではなく、たとえば普通のひとだったら階段を一段上がるたびに九十度に曲げるひざを、三十度くらいしか曲げていないように見える。それでのぼれてしまう。腕の振り幅もほとんどない。何よりリズムが一定でなく、一段上がると小休止し、そうかと思うとパタパタッといっきに数段をかけ上がる。左右にもふらふらと揺らいでいて、いちど三階から降りてきた出張セールスマンと正面衝突しそうになっていた。セールスマンは小一時間も新商品を売り込んだのに、結局何も買ってもらえないで家を追い出されたときのように、悲しげな侮蔑の表情を浮かべた。

「先にお客さまにお届けする物があるので、そちらに寄らせていただきますね」四階と五階のあいだの踊り場で、ジュリオが振り返って声をかけると、男はぷすっという了解なのか不満なのかよくわからない音を漏らした。ジュリオは右手に持った傘を左手でぽんと叩いて見せて、同じことをサイレント・バージョンで伝えた。こんどはふうっという鼻息しか聞こえなかった。

🚃

 五〇四号室のドアをノックすると、話し声が中断し、「はい、どなた?」という声が投げられてきた。「フロントです、ミセス・グレイ。ご依頼のあった傘の修理が終わりましたのでお届けにあがりました」

 室内から応接室を模様替えするような大きな音が聞こえたあと、ドアが内側に開いた。グレイ夫人はフリルのついた室内着の上から、紺色のガウンを羽織っていた。

「ご苦労さま。さあ、入って」

「傘をお渡しするだけなので、ここで結構ですよ」

「そんなことおっしゃらずに。ちょうどシャンパンを開けたところなので、お付き合いくださいな」ジュリオが差し出した傘を手のひらで押しやって、グレイ夫人が誘った。

「私はまだ勤務中なんです。それにいま他のお客さまをご案内している最中ですので」

 それを聞いたグレイ夫人がドアから身を乗り出すと、ジュリオのとなりに背の低い男が立っていることが明らかになる。背丈はジュリオの腰ほどしかない。「あら、ゴードンじゃない。こんなところで会うなんて! いつ出てきたの?」

 どうやらふたりは顔見知りのようだった。

「金曜日にね」ゴードン、と呼ばれた男が夫人を見上げながら答えた。先週末に田舎から出てきたばかりの老人か。そう思うとジュリオは彼のあかぬけない身なりに腹落ちした。おおかたオレンジバーグあたりから出てきたのだろう。

「だったらちょうどいい。ふたりともお入りなさいな、さあ」グレイ夫人はジュリオとゴードンの手をとり、強引に室内へと招き入れた。

🚃

 五〇四号室はこのホテルで最も瀟洒な部屋のうちのひとつだ。リビングルームには赤いビロード張りのソファが円型のカクテルテーブルをはさんで向かいあっており、そのひとり掛けのほうに夫人が、ふたり掛けのほうにジュリオとゴードンがならんで座っていた。正面の壁には絵画がかかっている。オレンジ色の長方形が、マスタード色の長方形を上から押しつぶすように積み重なった抽象画だ。そのかたちはジュリオに故郷のエッグタルトを思わせた。そういえばこれまでなんどもこの部屋に入っているのに、いちどもじっくりと絵を眺めたことがなかったな、とジュリオは思った。

 グレイ夫人は氷で満たされたクーラーから抜栓済みのシャンパンボトルを取り出し、トーションで水滴をぬぐってから、グラスに注いだ。テーブルの上に金色の泡の柱が三本立った。

「それじゃ、傘とゴードンの、ラザロの復活を祝して」夫人はグラスを高く掲げると、一気に飲み干した。ゴードンも続けてグラスを掲げ、ジュリオはちょっとガラス天板から持ち上げただけで、口をつけずにテーブルに戻した。

「この傘は」そう言ってグレイ夫人はテーブルに置かれていた日傘を取り上げ、留め具をはずしてふたりの目の前で広げた。布張りの地は白く、黄色いレモンの模様が描かれている。レモンの葉はさわやかな水色だった。「四十年も前にリスボンで買った思い出の品なんです。それを孫のリンダに壊されてしまって。ほら、子どもがよくやる遊びがあるでしょう? 傘を力いっぱいに振り回して、空気抵抗で骨組みをひっくり返す遊び」

「私も子どものころによくやりましたよ」白い壁の家々にはさまれた、石畳の坂道。道の中央には鋼鉄の軌条があって、黄色い路面電車トラムが通るたびに縄跳び遊びを中断させられる。道端に停められた黒い自転車。よく泣かせた年少のパブロの家の窓からただよう、サーディンをオリーブオイルで炒める香り。そういった過去の記憶たちが、ジュリオを束の間の郷愁にひたらせた。思えばこうしてグレイ夫人と親密な会話ができるようになったのは、たがいの若きころの心象風景に、リスボンという共通の街があったからだ。

「リンダは元気にしてるのか?」グラスの泡を眺めながらゴードンが尋ねる。

「あらゴードン、あなたリンダのことをご存知でしたっけ?」

「リンダの母は、私がダンスを振り付けたペアの片割れだ。州大会で優勝したんだ。アグネスという名前だろう? だがパートナーだった男――忘れもしない、デイヴィッドという名だよ――が酒を飲むと手がつけられなくなる男で、全米大会の直前に警察沙汰を起こした。運が悪いことに、アグネスが事件の被害者のひとりになった。それでペアは解消になって、彼女はダンスをやめてしまった。あんたの息子と出会ったのはダンスをやめたあとのことだ」ゴードンはシャンパンを飲み干すと、グラスを静かにテーブルに置いた。「煙草を吸ってもいいかな?」

「私にも一本」グレイ夫人がお代わりを注ぎながら言う。

 ゴードンは懐から横長の青い紙箱を取り出し、故意に選り分けた一本を夫人に差し出す。グレイ夫人はその不自然な動作を現認しているが、ほとんど気にかけるふうでもなく、差し出された煙草を指のあいだで受け取って口先に添え、先端をゴードンに突き出した。ライターの石が火花を散らしながら二度ふるえて、茶色い紙筒の先にオレンジ色の灯がともる。

「リンダは息子夫婦とマカオでしあわせに暮らしてるけど、いまはニューヨークに滞在してるの。マカオで暴動があったせいでね。それでせっかくだから娘におばあちゃんの顔を見せたいってアグネスに言われて、このあいだ郡立公園まで出向いたわけ。気持ちのいい天気の日だった。リンダは背がだいぶ伸びてね。もうちょっとしたら歯の矯正をしてあげなくっちゃ」そこまで言い終えると、夫人は煙草を深々と吸い込んだ。

「歯並びはアグネスゆずりか」ゴードンが愉快そうに煙草の灰を落とした。

 知らない家庭の話を聞いているだけだったが、ジュリオは不思議と退屈ではなかった。マカオからやって来て、合衆国に一時滞在している少女が、遊んでいて祖母の大切にしていた日傘を壊してしまった。離れて暮らしていて、ふだんはあまり会うことのない、遠い存在だったおばあちゃんの傘を。告白するとき、リンダはきっと勇気をふりしぼったことだろう。しかし彼女はごまかさなかった。そしてグレイ夫人は彼女を許した。そういう「健全さのリレー」のアンカーとして、自分は夫人の傘を完璧に直したのだ。

 グレイ夫人とゴードンが話しているあいだに、窓際に置かれた大きなタビビトノキの影がソファの足許までせまってきた。影はやがて夫人の座っているひとり掛けソファをすっぽりと覆い、逆光にあった夫人の顔の陰がいちだんと濃くなった。

「陽射しでクーラーの氷が溶けちゃったわね。いま新しいのに替えてくるから、待っててちょうだい」グレイ夫人がソファのひじ掛けに体重をかけ、立ちあがろうとする。

「私が取り替えてきますよ。そもそも私の仕事です」ジュリオがシャンパンクーラーを引き寄せようとした手を、夫人がぴしゃりとはたいた。

「いいのよ。ブライアンがマカオからケースで持ってきてくれたシャンパンがまだまだあるの。あなたもそのグラスを空けちゃいなさい」そう言うと、グレイ夫人は煙草を口にくわえたまま、両手でシャンパンクーラーを抱えてキッチンに入っていった。

🚃

 リビングルームにふたりきりになると、ジュリオに急に時間の感覚が戻ってきた。エレベーターがチンと鳴り、外の廊下を集団ががやがやと通り過ぎていく。そろそろチェックインが始まる時間だったが、まだ陽は高いし、しばらくは同僚ひとりで大丈夫だろう。それよりも、となりに座っている男の用件を済ませねば。彼は〈ザ・ピンク・ハウス〉を見たいのではなかったのか?

「お時間はまだ大丈夫なんですか?」ノルマンディー上陸作戦以来の戦友のように密着して座っているゴードンの、ちょうど自分の肘くらいの高さにある耳に向かって、ジュリオは尋ねる。

「大丈夫」吐き出した煙のただよう空間を見つめたまま、ゴードンが答える。目の端に、これまでの人生を乾かしてこしらえたような白い跡が残っている。「日没までに終えられればいい」

 それならば、と思ったジュリオは、テーブルの上の気の抜けたシャンパンを飲んでしまおうか迷っている。もともとアルコールは好きな質なのだ。もうちょっとたてば遅番とも交代できる。ひざの上で重ねていた手をくずして、グラスに手を伸ばしたそのとき、ゴードンがつぶやいた。

「リンダはアグネスの本当の子どもではないんだ」

(第2回に続きます)


illustration by Yuka Yamato

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