短編小説 『イエロートラム』 〈第2回〉
ジュリオの伸ばした手が止まった。「それはつまり、リンダは夫人の本当のお孫さんではない、ということですか?」
「『本当』の定義にもよるが、まあそういうことになる」
「でも先ほど歯並びが似ているって……」
「私と夫人は、本当は似ていないことを知ってて言ってるのさ。たしかにふたりとも歯並びは悪いが、似てはいない。そもそも人種だってちがうくらいだからね。仲間うちだけで通じるジョークさ。しかしきみはそのジョークが通じる相手ではないから、こうして解説した」ゴードンは目の醒めるような青いネクタイをジャケットの合わせから引き出し、裏側の縫い目を検分すると、満足げな表情を浮かべて、またジャケットのなかに戻した。まるで次のジョークがそこに書いてあるみたいだった。
「デイヴィッドがバーで発砲事件を起こしたとき、私は彼のとなりにいたんだ。彼はひどく酔っていて、これ以上は危険だと思った私はアグネスに電話をかけた。当時アグネスとデイヴィッドは私生活上もパートナーだったんでね。アグネスはすぐに迎えに行くと言った。私がブースに戻ると、デイヴィッドはテーブルに突っ伏していた。あのまま寝ててくれればよかったんだ。だがしばらくすると、突然雷に打たれたかのように体を震わせて立ち上がり、革のポーチからスミス&ウェッソンを取り出すと、目に留まるものを片っ端から撃ちはじめた。最初はカウンターに座っていた歴史教師のテディ。次が店の梁に飾られてたバッファローの角。三発目が壁にめり込んだあと、同じ壁から女神のごとくみんなに微笑みかけていたグレタ・ガルボ。たしかスタイケンが撮影し、後年に『ライフ』の表紙にもなった写真だ。次に悲鳴を上げたのがバーテンダーの黒人で、最後の一発を浴びたのが、そのときちょうど彼を迎えに到着したアグネスの腹部だった」
ゴードンが振り返ってキッチンのようすをうかがう。ジュリオも同調してキッチンに視線を向ける。耳をすますが、部屋の空調がうなる音以外は聞こえない。
「客のだれかがすぐに救急車を呼んだが、教師とバーテンダーは助からなかった。アグネスは病院に運ばれ、将来子どもを産むことを望めなくなった」
「デイヴィッドはどうなったんです?」ジュリオは尋ねた。
「弾が尽きたあとは、両手で顔をおおって泣きじゃくっていたよ。ずっと入り口の近くに立ちつくしたままだった。警官が来て制圧するのに手間はかからず、彼は現行犯で逮捕された」
「いまも刑務所にいるんですか」
「ああ。たまに手紙が届くよ。才能ある踊り手だったんだがな。もったいない」
手紙ということばに、ジュリオは今朝がたホテルに届いた自分宛ての郵便物を思い出した。いまもリスボンに住む弟からだった。なつかしい地元新聞に包まれていたのは瓶詰めのマルメロのジャムがふたつで、簡素な手紙の入った封筒が同梱されていた。糊づけは省略されていた。子どものころ、ジュリオの家の庭にはマルメロの木が植わっていた。となりの家との垣根の近くだ。毎年秋になるとみごとに果実をつけた。収穫のタイミングを見極めるのは父だった。秋が近づくたびに、父の許可が待ち遠しかった。許可が出ると脚立にのぼり、弟と競い合うようにしてマルメロの実をもぎ取った。かごがいっぱいになるほど穫れた。家のなかが甘酸っぱい香りで満たされると、その日の午後に母がジャムを作ってくれるのがお決まりだった。
だが弟の手紙には、ジュリオがアメリカに渡ってからしばらく経った年、ひどい干ばつで庭のマルメロの木が枯死してしまったとあった。弟は「最初は悲しかったが、だんだん忘れてしまった」と書いていた。「だけどママが亡くなって、またあのジャムが恋しくなってね。自分で作ってみたので食べてみてくれ。シチリア産のマルメロだけどね」
グレイ夫人にひと瓶を持ってくればよかったな、とジュリオは自分の気のきかなさを恥じた。テーブルに置かれたクリスタルの灰皿が、その複雑なカットを巧みに利用してシチリアの陽を再現したような気がした。窓の陽射しはもうジュリオたちのふたり掛けソファにまで伸びていた。
さっきからキッチンのようすをしきりにうかがっていたゴードンが声をあげる。
「おかしいですね、あれきり何の物音もしやしない」
🚃
キッチンはリビングルームとひとつづきになっているのだが、カウンター以外は壁で隔てられているので、ジュリオとゴードンの座っているソファからは死角になっていた。大型冷蔵庫や電気コンロがあるのは壁の向こう側だ。ふたりはほぼ同時にソファから立ちあがり、カウンターに身を乗り出してキッチンの奥をうかがった。おかしい。だれもいない。ジュリオはカウンターを回りこんで、キッチンの全景が見える位置に移動した。だれもいないし、何かが作動している気配もない。いちばん奥がパントリーの扉になっている。ジュリオはふと、廊下でノックしたときに複数のひとの気配がしたことを思い出した。パントリーに近づき、「グレイ夫人?」と声をかけながらノックする。何の反応もなかった。ノブをひねる。ドアはするりと開く。夫人の体がつっかえになってるかもしれないと思ったが、杞憂だった。なかにはだれもいない。念のために照明をつけてみるが、買い込んだ食料品が棚に整然と並んでいるだけだった。背後でゴードンが息を漏らす音がした。「まさか倒れてるんじゃ……」緊張感にみなぎった彼の声は、しかしどこか芝居じみていた。
パントリーの床にシャンパンの木箱が置かれているのをジュリオは見た。スライド式のふたが半分開いている。ゴードンが近寄ってそのふたを外す。「さっきのシャンパンだ」木箱は十二本入るように設計されていて、そのうちの五本分が空だった。上からのぞき込んだジュリオには、空隙のほうがなかよく五本ならんでいるように見えた。
ゴードンはパントリーを出て、キッチンの冷蔵庫を開けた。なかには四本のシャンパンが冷やされていた。「シャンパンクーラー!」ゴードンが叫んでふたりはキッチンを見回した。夫人が抱えて行ったのは、コッカー・スパニエルの成犬ほどもある銀色のクーラーだ。それが四つの目に入らないのであれば、キッチンにはないのだろう。その代わりに、ジュリオはシンクに煙草の吸い殻が捨てられているのに気づいた。
「ミスター・ゴードン、これは?」言いながら、ジュリオはゴードンが苗字なのか名前なのかを知らないことにいまさらながら気づいた。それがぶしつけに聞こえたとしたらホテルマンとしては失格だが、ゴードンは気にしなかった。
「まちがいない、私のジタンだ」
短い煙草がさらに半分ほどの長さになっていた。シンクに押しつけられたように折れ曲がり、吸い口には口紅がついている。色はさっきまでグレイ夫人を実年齢以上に若々しく見せていた赤色だ。
(第3回に続きます)
illustration by Yuka Yamato