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きっとずっとかわいくて



これはただの愛情である。


そもそも舵木まぐろさんの『猫について』の記事にたどり着けたこと自体、この手のひらで事足りるうっすい機械によって人間の行動、思考パターンを読み越されたが故の恩恵であることに、改めて戦慄する今日この頃。

というのも、近頃キッチンに侵入することを覚え、人の目を盗んではシンクに立ち入る好奇心の権化(猫)に我が家の空気がヒリつき、好奇心の権化はいつしかストレスの権化になりつつあるタイミングだったからだ。

猫は話せない。当たり前だが、こちらが察する以外コミュニケーションの手立てはない。そのことを、馴染むほどつい忘れがちになる。叱られることを繰り返す。それは構って欲しいが故の、決死のアクション。好きの反対は無関心。「大きな音を嫌う」君が「隣の家の柴犬が吠えただけで傍に寄ってきて、そっと窓の外を覗き見る」君が、そんなリスクより重きを置くもの。

猫は話せない。外にいればたくさんの仲間と、5人家族だったらいろんな人と関われたことも、家では叶わない。人間の3倍の早さで年を取る君が、1日の半分を一人ぼっちで過ごさなければならない事実に惑うのは、こんな時だ。

舵木まぐろさんの『猫について』は、その後『猫について2』『やがて日常に変わりゆく』と続く。綴られているのは愛猫の死を目前にしたリアルな心情で、短い文の中にこそ深い愛情を感じる。中でも『「大丈夫なの?」って大丈夫な訳ないだろ、アホか』が好きで、安易にスキを押そうとしたが思い止まった。それは続く『ましてや普段から気に掛けてくれたりをしていない人間』を受けて、それもそうだと思い直したためで、結果的に形を変えたスキがこの文章である。だからこれはただの愛情。一方的な共感に過ぎない。


数年後に約束された未来。何であの時もっと構えなかったんだろう。本当に幸せだったのか。家で良かったのか。そんな答えのない自問自答を繰り返す時がいずれ来る。相も変わらず甘えたな君は、いくら叱られようと、冷たくあしらわれようと、結局膝の上に来て丸くなる。警戒を解かない吊り上げたまなじりのまま、それでも「にゃっ」と鳴いてみせる。その芯のある鳴き声。

〈私は私のしたいようにする〉

それはそんな宣言にもとれる。比較的視力が弱く、嗅覚や聴覚でその機能を補っていると言われる猫が、間近でじっと見つめる。見上げて、確認して、鳴く。そのことを、私がどう受け止めるか。どこまで自分を譲歩できるか。どこまで愛情を注げるか。美談じゃない。共存するというのは簡単じゃない。ケンカして、仲直りして、また些細なことでケンカして。その末に納得のいく最期を看取れるよう、どうあるべきか改めて考えさせる。

いい記事でした。


改めて、君がいて良かった。いつもありがとうね。

ねぇ、おかゆ。




※引用筆者様に敬意を表して「我が家のペット自慢」タグは外させていただきます。







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