【序、村木嵐さん『まいまいつぶろ』(独り言多めの読書感想文)】
婚活市場にこんなプロフィールが流出したらどうだろう。
・自ら望まずとも肩入れするような者が現れる程の〈なんとも美しい形の目〉を持ち、
・年収約800億
・思慮深くやさしい人柄
外見、年収、性格。
どれかを取るならどれかを捨てろと言われる現実で、その全てを満たす男がいたとして、じゃあなんでそんな人が突如市場に出現したかと言えば「高貴すぎるお人のため」
なるほど。年収の桁の異常さに即行頷ける案件。
けれどこのプロフィール、最後の最後までスクロールしていくと「ただし」として、いくつか加筆されている。「思慮深くやさしい人柄」花を毎日送り届けるようなやさしいその人が、実は
・弓も槍術の類も一切していないこと
・手に麻痺があるため、仮名ですら書けないこと
・コミュニケーションを取るには首振りで意思疎通を図るしかないこと
・基本的におむつ着用のこと
まさにこの世の天辺と底辺『座標軸上、上に打つ点を仮に「憧れ」【点A】、下に打つ点を「ないわー」【点N】とした時』のギャップが最高値を叩き出すお人、それがこの物語の主人公、9代Ieshige Tokugawaである。
ひとえに障害者と言っても「頭と身体の成長が連動する者」と「身体だけが成長して頭の成長が途中で止まってしまう者」がいる。ただπの小ささ故、「障害者」として大別される世の中を、渦中の者が憤ったとして責める気にはなれない。いくら道徳的な正義を説かれたところで、それぞれ当事者が向き合うことであり、部外者に人の心を矯正する権利などない。
理解すること。可能だとして、その深度は人それぞれ。けれどじゃあその深度は、必ずしもハンディあるなしの条件に依らない。増してや星座や血液型も関係ない。
ただ理解したいと思えるか。それは純粋な能動。受け入れるための準備。無意識に「その人」用のスペースを確保する。聞く耳、その人に沿うためのやわらかさが生まれる。足並みを揃えようとする。
だから始めはもたつく。歩幅もペースも違う生き物が、いきなり二人三脚やろうってんだ。互いに合わせようとしてかえって合わなくなることもある。けれど「その瞬間」は必ず来る。その時初めて生まれる感情。
〈あの日、居室に入った比宮を出迎えたのは、輝くばかりに美しい大輪の花だった。──一度は心が離れていたときがあったけれど、最後はその心遣いが二人を結びつけた。比宮と家重は互いがこの世にいることを有難いと思い、敬い合っていた〉
そう。全ては「出会えるか」
理解の深さ、愛の深さなんて誰しも大差ない。出会えた人は周りから見て愛情深く映るだろうし、一見薄情そうに見える人はまだ出会えず、退屈を持て余しているだけ。そう考えれば現代を生きている人たちの存在理由にも大差はない。誰しも出会える訳じゃないから、生涯浅瀬を歩む人もいるだろうし、かと思えば見つけた瞬間覚醒する人もいる。
例えば100人が100人「やっぱりいいです」と逃げ去るような条件だったとしても、一人がそれでもいいと言うなら万事いいのだ。ここで試しに順序を逆にしてみよう。何、単なる言葉遊び。
「出会えたから理解しようと思った」ではなく「理解しようと思ったから出会えた」
元々何かに夢中になりたいと思っていた。愛したいと思っていたから「それ」が出現した。「求めよ、さらば与えられん」というやつだ。
家重には理解者がいた。将軍という立場ではなく、ただ一人の人として理解しようとする者が。それが後に通詞となる忠光であり、妻となる比宮であり、幕閣である忠音であり、父親である吉宗。皆が皆耳を傾けた。たぶん皆が皆退屈してたからだ(言い方)
愛したかった。迷いなく信じられるもののため尽くしたかった。高貴な人でありながら時に蔑まれ、けれどそんな視線の中にあっても思いやりを忘れず、自分にできることを淡々としてきた人に、己を賭ける価値を見出した。
なんちゃってバチェラー。
毎度長くはなるが、よろしければお付き合い願いたい。
これは最弱にして最強の男の、かけがえのない出会いを描いた物語。
【全6回】
1、 友として(忠光)
2、 妻として(比宮)
3、 家臣として(忠音)
4、 男親として(吉宗)
別途付録
・文系による読書感想文
・ニコイチ