見出し画像

推しはジェネレーションギャップをゼロにする【feat.さつきちゃん】



「で、この子が『りいぬくん』」
 まん丸なたまご型のぬいぐるみ。丸くくり抜かれた顔は色違い。赤と桃色。赤の方を差してそう言う。
「りいぬくん」
「そう。まだライブには行けてないんだけどね」
 職場のクリニックにて。母親の検査が終わるのを待つ間、その後、花の種を入れた袋に穴が空いていることを知らず歩いていたクマの後ろに花の道ができるという「はなのみち」明日そのテストがあるのだと教えてくれた若干10歳の少女は、母親を呼び続ける妹と手を繋いだまま、大人顔負けのため息をついて言った。
 実は知っていた。莉犬くんは他のボカロ経由で見たことがあった。関連の沼は深い。知らぬ内に知っている。いつ足を滑らせたのか、誘導されて流れた先でうっかりハマっていることもある。

 思い出したのはテニススクールで前いたクラスにいた女子高生。
「さかたんが」
 基本テニスをしている時はテニスのことしか考えていない私の耳が敏感に反応する。練習の合間、おもむろに近づくと、仲の良い二人組は分かりやすく警戒心の塊になった。
「ねえ、それって浦島坂田船の話?」
 当時まだ女子中学生だった女子高生は目を丸くした。
 遡れば20代半ば、いわゆる乙女ゲーにはまった。初めての推しは自らを「おっさん」と称するエンジニア王子(今考えれば面白い設定だ)だった。同じ王子を推すフレンドによる「ガチャ運がない」とか「今回は諦める」という声を度々耳にすることがあったが、当時独身だった私は「愛が足りないんだよ」と現実の彼氏にも使ったことのない額を涼しい顔で課金していた。その後、YouTube経由でハマったのが4人組で顔を出さない歌い手、浦島坂田船だった。
「知ってるんですか?」
 一回り身体の大きい方の子が目を丸くしたまま言う。基本コミュニケーションを取る時、前に立つのはこの子だ。
「知ってるも何も」
 私もさかたん推しだ。
 ドヤ顔を全力で押し込めてそう続けると、顔中を笑顔にして「そうなんですか!?」と食いついてきた。伸びようとする鼻。咳払い一つ「どう考えてもさかたんが一番かわいい」と続ける。
「ですよね! ライブで見るとすごくないですか!? 本と、肌白くてツルッツルでもう天使かって感じですよね!?」
 いや、ライブとかまでは行ってないんだけど。
 そうしてこの時初めて彼は天使だったのだと知る。しかしいくら情報量が少なかろうと、私ももう少し話したい。
「最初すごい頑張ってる感じだったけど、最近歌上手くなったよね。ボイトレ効果すごいな」
「そうですよね! アルバムAとBどっち買いました?」
「B」
「A貸しましょうか?」
「いいの?」
「来週持ってきます」
 見よ、このフェザー級のフットワーク。
 はつらつとした笑顔でそう言った彼女をさつきちゃんとする。片割れは高校に上がると同時にテニス自体やめてしまったが、一人でもさつきちゃんはやってきた。通常学生は部活がある。だからわざわざこうしてスクールに来るのは、部活では足りないタイプか、もしくは
「学校で人間関係うまくいってないらしいよ」
 数回だけ同じクラスに顔を出した女性が耳打ちした。個性が伸びようとする時、どうしてもぶつかり、どちらかが折れる機会が増える。その、折れなかった回数が人より多いと、折れた側で少しずつ蓄積していった不満同士が手を繋ぐようになる。話し方から察するに、さつきちゃんはおそらくそういうタイプだった。
 ただ別にどうでもよかった。そんなことより「それを理由にテニスを離れなかった」ことこそが私にとって重要だった。私含め、自分の倍も歳の離れた集団の中でプレイすることにどれだけ勇気のいることか。些細なことに揺れやすい心で、その日調子が良かろうと悪かろうとコートに立ち続けることにどれだけ度胸がいることか。彼女はそんなストレスを押してまでこの競技を選んだ。それだけで充分敬意を払うに値した。

 コミュニケーションがそうであるように、テニスも全てアドリブだ。相手の打球に合わせて自分を変える。自分の力を発揮するために丁度いい距離感を模索する。
 さつきちゃんは「勇敢」という言葉がよく似合った。
 中学の時シングルスで県大会に出ていただけある。身体の真横で捉えたボールはまっすぐ飛ぶ。純製のフラット。それは風を切って、コートの隅を叩く。フラットは面の角度が繊細で、少しでも違えると容易くベースラインを割る。それでも彼女はいつだってフルスイングで、力比べを好むタイプだった。

 同じ空間にいると影響し合う。
「うわあ、来た」
 そんなさつきちゃんでも、寡黙で、サーブで殺しにかかる男だけは苦手だった。その人と組む時だけは実力の半分も出せずにいた。
 弱気になる。サーブが入らない。ドツボにハマる。
 リターン側が40になった時のセカンドサーブ、その日さつきちゃんはあえてファーストを打った。弱さを振り払うため。その一打こそがさつきちゃん自身だった。ただ安パイに、置きに行くようなサーブを打つくらいなら、リスクを負ってでも獲りに行く一点。若干18にして、彼女は立派な戦士の顔をしていた。
 影響し合う。
 その後、ビッグサーバーが来なくなって最も堪えたのは、誰よりさつきちゃんだったように思う。震えながら、自己嫌悪を重ねながら、それでも逃げなかった彼女は、ある日「うわあって思うけど、いないと物足りないですよね」と呟いた。
 少し前まで中学生だった少女が知らぬ間に大人びていく。成長する。
 ふっくらとした女性性を象徴する身体。追い求める心。

 知っていた。本人が思うより周りが。
 さつきちゃんはあの男のプレイが乗る時、呼応するように調子が上がった。無意識に上げるギア。研ぎ澄まされる。
 イン。イン。イン。
 フラットの強打にどれだけの度胸がいると思う。
 それを継続することにどれだけの集中力がいると思う。
 別のコートに立とうと、それは消えない。
 こう在りたいという残像。ふさわしく在りたいと思う心が、成長期に拍車をかける。
 サーブにかかる負荷。
 プレッシャーの受け止め方に多少の差があるだけで、さつきちゃんもまた力強いサーブを打った。あの男もまた、セカンドをファーストで打っていた。
 同化する。その姿がなくなっても、さつきちゃんを通じてあの男が見える。
 それは小さな生き物が必死で背伸びをして、届いた所に足をかけて、再び手を伸ばして、終わらない戦い。
 変わらない。サーブを打つ時にかかるプレッシャーは、技術云々を問わない。皆平等に肩に乗る。それでも打たなきゃ始まらない。

 その後、他県の大学に進学を決めたという彼女は、この春地元を離れた。最後に「ありがとう」と声をかけると、はっとして「ありがとうございました」と返した。既に今日の反省に入っていた。それでいい。
 うまくいっても、失敗しても、立ち止まらず次を見据えて。
 踏み外しても、怪我をしても、歯を食いしばって前を向けるから。あなたは。
 とても強くて勇敢な子だから、きっとまた出会える。素敵な人に。どれだけ自己主張しても上手に聞いてくれる人が現れるから大丈夫。いつかそんな推しができたら、その時はまた聞かせて欲しい。顔中を笑顔にして。



「お待たせ。いい子にしてた?」
 検査を終えた母親は私に向かって頭を下げると、まん丸なたまご型のぬいぐるみを抱えたままの少女に声をかけた。さっきまで頑張って大人の顔をしていた10歳はあっという間に子どもに戻ると、母親に「この子がずっとママ、ママって言ってて」と妹の手を引いた。
 役目を終えてその場を離れる。少女ははつらつとした笑顔を向けた。
「ばいばい」
 手を振り返す。
「うん、またね」
 言っておいて「しまった」と思う。「また」などと、クリニックで言うことではない。健康を願うなら会わないのが一番だった。構わず少女は「またね」と返した。
 その腕の中で「りいぬくん」が揺れた。







この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?