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あの日の続きを(後編)【feat.ひこにゃん】



 その日、ようやくコーチが「ここの女性はたくましいから、男性陣は本気で打っていいよ」と言った。ストレートのラリー。向かいに立つはひこにゃん。回転量の多い打球は、容赦なく面を押し上げる。思うような弾道を描けない。
 成程、これが本物。
 ただでさえ縦に変化するボールは難易度が高いのに、そこに回転量が加わる。気づく。これは一年前、180分だけ打った「男性トーナメントクラスだヨ」の男の打球に酷似している。ならば高い弾道のものは落としてはいけない。低い弾道のものはとにかく早く打点に回り込む。何より。
 楽しめ。
 それは本来、私など歯牙にもかけないだろう相手と打てる喜び。

 ゲーム、相手前衛にひこにゃん。アドサイド私のリターン。クロスに浮かせたボールを叩かれる。サーブの勢いは殺した。高さも出した。それでもジャンプして合わせられるのか。脳裏をよぎる声。ニタニタと笑う顔。
〈えー、速水さん朝イチでパートさんが何の業務やってるか知らないのー?〉



 別れは突然だった。
「定時なんて都市伝説」を地でいく様な働き方をしていた私達は、一つの山場を越えて、次に備えようとしていた。
「異動だって」
 まろにゃんはその後続けて「お先に失礼します」とおどけてみせた。ここではこの場所から出ることを「出所」と言った。その意味がもう分かるようになっていた。まろにゃんのここでの勤務最終日、私は一泊二日の旅行に行くつもりで有給を取っていた。
「寂しいかもしんないけど、頑張って」
 そう言ってガラにもなく頭を下げると、続けて「ありがとうございました」と言った。
 何だそれ、と思った。


〈速水さあん〉


「どうしたの?」
「……ううん、何でもない」
 呼ばれた気がして振り返る。そんな訳なかった。
こぞって従業員が出迎える旅館。館内で持ち歩くことこそ非礼に当たると察するスピードで奪い取られる手荷物。部屋付きの露天風呂。西に開けたベランダは、暑い季節でも白い湯気に覆われている。寒くないからいつまで佇んでいようと平気だった。小高い丘からは眼下、街の景色を一望できる。観光地にありがちな、夜間には極端に減る明かり。
 ふっかふかのシフォンケーキのような布団に埋もれて見上げた天井には、檜の太い梁が横切っていた。その先で接合する少し細身の縦の梁。その先で接合する横の。

 目を突くライト。縦横無尽に張り巡らされた鉄パイプ。自分の身長の二倍もある脚立から手を伸ばす男。



 喉が詰まる。
 気が触れそうだった。
 仕事がしたくて。



 ずっと退屈だった。何かすれば褒められて、何故か評価だけは高くて。それは本来「いいよ、重いから僕が持つよ」ってやってもらったものの寄せ集めに過ぎないのに、誰も何も気づいてくれなくて。
〈頑張って〉
 頑張らなくても手に入るもので窒息しそうだった。退屈に殺されるかと思った。そんな中、やっと「使えない」と気づいてくれる人がいた。ちゃんと自分の目で見て、相応だけを割り振ってくれる人がいた。頑張らないと手に入らないものを与えてくれた。何にもない私にも。なのに。まろにゃんが今も最後の後片付けをしているに違いないのに、私がここにいる意味が分からなかった。私の居場所はここではなかった。
 前もって伝えていたにも関わらず、まろにゃんは「最終日来てくれなかった」ことを後々まで引っ張り出した。寄せ書きというポケンとした5年目の作ったものを他の社員に渡してもらったが、そういう問題ではない。その日、止まないアラームを止めに行かなかったことは、きっと私の方が後悔している。

 


 リターンを叩かれる。同じ形でやられるのは2度目だった。
 いやいらんからマジでそういうの。
 フラストレーションが溜まる。まろにゃんのドヤ顔がよぎる。
〈えー、速水さん朝イチでパートさんが何の業務やってるか知らないのー?〉
 うるさい。
 ショートクロス。きちんと巻いた打球がサイドラインを削る。
 うるさいうるさいうるさいうるさい。
 調子に乗るなよ。
 リターン。その足元に叩き込む。ひこにゃんの打球はネットにかかった。

 上がる。
 ひこにゃんと組む。
 早かろうと、重かろうと、
 高かろうと、いい加減強かろうと、

 知るか。

 ストレートに打ち込む。決め打ち。故に何のしがらみも纏わないそれは、キレイに抜ける。
「出ます」
 今度は、「ここ」では、私が先輩。
 横に手を出したひこにゃんが「しまった」という顔をする。
 雁行陣ではなく並行陣。
 あなたの積み上げて来たもの、それはそれ。
 いいから、変わって。
「出ます」
「はい」
 ひこにゃんがポジションを下げる。頭上をカバーできるように。前で戦えるように。何より、
 一つのコートを二分する。縦に割った自陣。明確になる守備範囲。各々守れるように。
 同じ方向を向いて戦う。
 頭上、浮いたボールを叩く。
 この男、腹筋が強い。

 頼もしいね。

 思わずこぼれる笑み。

 

 随分前にパパになったまろにゃんは、今もどこかで頑張っているのだろう。
 ひこにゃん、このクラスに入るんだって。
 一期一会。その、人生のほんの一部。それでも今度は個人の望む場所にいることができる。動くも留まるも本人の気持ち次第。私も頑張るよ。勝手にあの日の続きを始めるよ。

 今度は負けないんだから。






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