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あの日の続きを(前編)【feat.ひこにゃん】





 思い出すのは底抜けの笑顔。
 一期一会。その、人生のほんの一部。
 それはまるで流れ星。正しい変化を遂げたものは再び輝く。


〈速水さあん〉


 歯牙にもかけない。男は自分のターンを終えると、そのまま次のポジションに移る。その様は今打ったボール、返球に対して割くような脳みそは持ち合わせていないよう。既に修正をかけた状態から続きを始める。単純に思考のクセ。それはどこまでも効率的で、どこまでも建設的。
 退屈しない。例のテニススクールに新しい顔が現れた。体幹太めの黒縁メガネ。年は私と同じ位に見える。元々互いにコミュニケーションを取り合う集団ではないものの、その中でも一際個の壁厚めに感じる。呼称をひこにゃんとしておく。
 もうこうしてピックアップするパースンは一様にバケモノだと思ってもらって差し支えない。ひこにゃんは私がこの場所に来たての頃、初級のクラスから見上げていた中級の見本そのものだった。打ち方、回転量。欲しい所にボールは飛んでこない。だから自分の動きで安定感を出す。例えば横に走らされた時の縦のスイングだったり、ベースラインギリギリに落とされた時にかけるサイドスピンだったり。自由自在に自分を変えられる、そんな余裕こそが中級の本質だった。
 上手い。
 その身体の使い方を観察する一方、胸の奥でチカチカと点滅するものがあった。無視するには少しばかり主張が強すぎる。そのまたたき。ナイターの照明に照らされても、いや、この類の照明だからこそきちんとリンクする。




 それは社会人五年目、異動した職場にいたのが体幹太めの黒縁メガネ、ようやく一年現場に立ったばかりのひこにゃんだった。二人の区別をつけるために、こっちのひこにゃんをまろにゃんとしておく。このまろにゃん、人見知りが激しく、声をかけても目を合わせない、そっけない。すぐ分かることだけれど、ここは仕事量が半端なく、他人の動向を気にかける余裕を誰しもが持たない。それは新入社員だろうが使えない何年目だろうが関係なく、責任は平等にその肩に乗る。そんな非情な現実は「いいよ、重いから僕が持つよ」と周りに目一杯甘やかされてきた私の肩にも漏れなく乗った。ちなみに私はというと、まずその重ささえ正しく認識できないレベルだったため、異動してくる人間をこぞって「使えない」と評していた責任者も逆に笑ってしまう程スーパー使えないパースンだった。
 そんなスーパー使えないパースンは、まず普通の社員が持つ分の負荷をかけられても負い切れず(厄介なのは本人はできているつもりだったこと)場所を変えて、持ち分を減らされた。「ちょっとよく分からない」と首を傾げる。そうして本来は一人で担当する持ち場を二分する形で持つようになり、その時私の上につけられたのがまろにゃんだった。

 お分かりいただけると思うが、あくまで本人はできているつもりなのだ。ひよこの殻をお尻にくっつけたままに見える入社2年目の子を上司とする立場がどれ程きついか。そうでなくても元々プライドばかり高く、従うようにできていない人間がここまで大人しくしていること自体奇跡に近かった。そうして許容量を超えた時、不満は形をなす。ぶつける先はぶつけられる相手。
 まろにゃんは「これ、お願いします」と固い顔で言った。どう応えたか分からない。仕事のできる人にはにわかに理解し難いことだが、感情ひとつで仕事に波ができる人種がいる。やりたい、やりたくない、で二分できてしまうのだ。特に私のように甘やかされてきた人種に多発する。
 固いもの同士がぶつかる、嫌な感じがあった。仕事量は変わらない。それでも本来一人の所を二人で回す以上、ただでさえ落ちているコスパに沿った割り増しの対価を求められる。もはや感情どうこうの次元ではない。殴り飛ばしてでも同じ方向を向かせる必要があったはずだ。そうしてたぶん各々に頭は抱えていた。ただ同じ方向を向けない。
 そんな時解決の手立てになったのは、意外にも時間だった。「時間が解決する」というヤツである。主に悲しみをやり過ごす時耳にすることが多いが、それはどうやら他にも応用できたようで、この頃私がこの場所にやってきて実に3ヶ月という時間が経過していた。「仕事ができない、ポケンとした5年目」は、使えないなりに謎の使い道を見出される。事務室にいるだけで、やって来る社員皆が皆、息をつくのだ。その根底に「こいつよりマシ」という考えがあろうとなかろうと、自然、溜めていた不満がこぼれ落ちる。私はただ「ふうん」と聞いていただけだ。使えないことに変わりはない。けれど使い方にこそ問題があるといち早く気づいたのはまろにゃんだった。
「速水さあん」
 どこからか呼ぶ声がする。どこか分からない以上、視界に入らないどこか遠くからだ。その声はアラームが如く、その場に行かない限り止まない。
「……何」
 見上げる。高い天井。眩しいライトが目を突く。その下を縦横無尽に張り巡らされた鉄パイプ。排水管しか用途を知らない以上、アレの中を何が通っていたのか、未だに分からない。まろにゃんは自分の身長の二倍もある脚立に乗ったまま「それとって」と私の足元を指差した。

 決していいことばかりではなかった。
〈えー、速水さん朝イチでパートさんが何の業務やってるか知らないのー?〉 
 そんな何気ない一言は私の痛い所を的確に突いたし、それこそが「使えない」所以だとしても、正面切って認められるようになるまで、それからまた随分時間を要した。同時に男が与えられた環境をうらやまずにはいられなかった。
 それでも男は私の使い方に気づく。
「これ、お願い」
 上からではなく、下から「お願い」する。必要になるのは上目遣い。「しょうがない」を引っ張り出す。方法なんて何でもいい。とにかく同じ方向を向かせる。感情が向けば走る力はある。形だけでも頼りにすることで、とにかく気持ちよく仕事をしてもらう。そうして私自身、能力こそなくても3ヶ月見てきたものに染まり始める。動き方が分かって来ると、少しだけ猫の手が使えるようになる。放散していた力をポイントポイントに絞れるようになると効率が上がる。少しずつ、少しずつそれは
「貸して」
 人の手に変わる。
 従ってやるよ。しょうがないから。
 思い出すのは底抜けの笑顔。
 まろにゃんは脚立の上から手を伸ばした。






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