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猫が好かれるのはいいにおいがするから〜推薦図書、村山由佳さん『猫がいなけりゃ息もできない』〜2



『猫がいなけりゃ息もできない』はエッセイだ。だから基本的に一人称は「私」ごくたまに猫が関西弁を喋ることもある。幼い頃から猫とは限らず数々の命と共に成長し、引っ越しや出会いと別れを繰り返してきた作者と、生まれてから死ぬまで18年弱という歳月を共にした三毛猫「もみじ」その大切な日々を書き残したもの。
 まずそもそも私が「基本的にその作品しか読まない」とした、物語を好む理由だが、端的に言えばそれは「物語はフィクションゆえ、意図せず誰かを傷つけない」からだ。その中で誰が何を成し遂げようと嫉妬の対象にならない。失敗しようと、傷つこうと、安心して無責任に応援できる。そうして元々作家読みな分、一定の満足は担保された状態から入るから、その時間が(あくまで自分にとって)丸々無駄になることもない。
 逆にエッセイ、自己啓発の類は背景に「その人」が見えるため、振り向きざまの一瞬でその人の受けてきた評価やフォロワー数が「におう」ところがある。いくら良作でも、かおってしまえば最後、それはしつこく鼻先に残る。目が覚める。熱が冷める。深く潜ろうと、浮上するとなると一瞬だ。

時にここnoteでも「記事を読んでもらうために」の記事が溢れている一方「好きなこと、思ったことを自己満足のために書き残す」をモットーに書き続けている方もよく見かける。自分の残したものが相手の利になり、需要と供給が一致すれば何よりだが、そうならないのはどうしても「におって」しまうからじゃないか。そのくさみは体臭が如く、自分では気づきづらい。というか誰かに言われない限りたぶん気づけない。
 自身の記事を例に挙げると、PVが安定してスルスル伸びるのは「読書感想文シリーズ」作品に焦点を当てるから、くさみが極力抑えられるのかもしれない。逆にエッセイの類はくさみが強い。でも納豆を好きな人がいるように、皆が皆嫌う訳ではないと思ってありがたく甘えさせてもらっている。一度でも強烈ににおってしまうと来る人が減るのもネットあるあるだ。普通時間を割いてわざわざくさいものを嗅ぎたくないしね。私もそう思う。
 そんな訳で本題に戻ろう(何度目だ)

無臭とは言わないが、エッセイだろうとこの人だ、と思う。そこにあるのは思想。その人から生まれる物語を好む、根の部分。考え方は、それはそうだろう。その人の傾向なのだから。だから一人称を代えようと村山由佳さんであることに変わりはない。拝むように両手で受け取ってきたその言葉一つ一つは変わらない。何気ない日々のこと。その一つから物語のパーツを生み出す。

〈猫のいない人生なんて、窓の一つもない家のようだ〉
〈ただ口や舌の形状が人の言葉を発音するようにはできていないから喋れないだけなんじゃないか。というか、私たちのほうこそ、彼らの伝えようとしていることの百分の一もわかっていないんじゃないか〉
 中でも、
〈もみちゃんは、もみちゃんの前は誰だったんですか?〉
 
その一文を目にした途端、ドン、と身体の内側から、背中側からとてつもない力で押された気がした。理解より先に身体が反応したかに思えた。
〈これほど強い縁だったんだもの。初めてじゃないですよ。もみちゃん、前にもきっと、村山さんのところにいましたよ〉
 悲鳴に近い声が漏れた。本を取り落として、両手で口を塞いだ。とんでもないものが身体から出てきて、出て行ってしまいそうで。

〈「亡くした愛猫のことを思い出す機会が減ってきて寂しい」と相談したところ、お医者さんが、「それは〈同化〉と呼ばれるもので、これまでは猫があなたの外側にいたから悲しかったけれども、今は内側にいるんですよ」と言った、というものだ〉

もみちゃんのまえはだれだったんですか?

過去に小さな小さな連載をした。
 その少し前、黒猫の話を書いた。ひなたで目を細める仕草。大切な友人は猫に似ていた。
 顔が上げられない。
 何度もごめん、と言っていた。何度も会いたいと願っていた。
 どんな姿になっても必ず見つけるから、と。それは。

例えば寂しい思いをしても、外には出られなくても、
 でも、自分で自分を成り立たせなくても、生きていていいのだと誰もが認める、

もちろんおかゆはおかゆだ。他の誰でもない。それでも、命が巡り、縁あって人の膝を陣取っているのは、私も含めて本人だけの意思とは限らないのかもしれない。鶏が先か卵が先かもわからないような我々には、掌握できないことが想像もつかない程あって、だからこの子もまた、もしかしたら「2度目」なのかもしれない。昔飼っていた、よく懐いたシマリスにも似た模様。あるいはそれは一人とも限らないのかもしれない。いずれにしても。

ここにいてくれてありがとう。

ただ単に先に亡くなる命に対する底知れぬ恐怖から掬い上げられる心地がした。何だ、また来てくれたの。それなら「自分の」ではなく地球規模の大きな流れの一つに過ぎないと、コンテニューだと思えた。時間に対する考え方を少しだけ軽くすることができた。かわいい時はかわいい。叱る時には遠慮なく叱る。それでいいんだ。後悔して、命に遠慮しなくていいんだと思えた。

ごはんのラックを落としていたおかゆは、転がすボールをトラップして返すという技を(偶然)披露して、目一杯おだてられた結果、相変わらず「構え」とソファの足元で見上げる傍らにボールを持ってくるようになった。
 猫だって認められたい。自分はこんなにスゴイんだぞって、認めて褒めてもらいたい。「取ってこい」はできないけど、速いボールに反応することはできる。人を驚かせたり、喜ばせることができる。

構ってやってるのか構ってもらってるのか。
 生かしているのか生かされているのか、時々分からなくなる。
 それでも、会えてよかった。あなたがいてよかった。
 読んでよかった。知れてよかった。
 私は、村山由佳さんが大好きです。

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