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「傷」のある「ヒーロー」〈或いは理不尽と優しさについて〉

 シン・仮面ライダーを二回見て、本質的で重要なテーマを描きながらも、そのテーマが読み取りにくいなと思ったので私なりの感想を書いてみた。

 シン・仮面ライダーを雑に見てしまうと、理不尽によって生み出された不幸な個人が選択した答えを本郷猛、緑川ルリ子及び、政府の男達の倫理観に照らして断罪し、暴力によって粛清する映画に見えてしまう。
 というのもオーグメント達は一般人を害する描写は意図して省かれ、オーグメント達が敵愾心を燃やすのは基本的に組織の「裏切り者」に関してだけだからである。オーグメントに惨殺される一般人は出てこない。確かにハチオーグは一般人を操ってはいたが、危害を加えてはいない。
 仮面ライダーも敵のオーグメント達もは守る者もないのに、何かと戦っているように見える。
 では彼ら一体なにと戦っているのだろうか? 
 私はしかして彼らはは理不尽な出来事戦っているのではないだろうか思った。もしそうだとするとオーグメント達が倒される怪人にしては人間臭すぎるし、「弱者」として描かれている理由もぼんやりとだが分かる気がするのだ。
 作中では理不尽な出来事に関して描写がある。
 一番の理不尽は肉親の突然の死である。本郷猛や緑川一郎は理不尽な理由で殺人鬼によって突然切断された生命を目の当たりにした人々だ。
 理不尽という言葉の意味を念の為に確認しておこう。

〘名〙
(形動) 道理をつくさないこと。また、すじみちの通らないこと。道理に合わないこと。また、そのさま。むりむたい。

精選版 日本国語大辞典

 理不尽とは道理に合わないことである。では道理とはなにか?

〘名〙
① 物事のそうあるべきこと。当然のすじみち。正しい論理。
② (形動) すじが通っていること。当然であること。もっともであること。
③ 訴訟で、自分の側を正しいとする主張。
④ それぞれの分野での正しいあり方や筋道。ある事柄に関して正当性があること。その事柄を表わす語の下に添えて、「…道理」の形で用いられることが多い。
⑤ 特に、文書に明証があること。「文書道理」と熟することが多い。
⑥ 人間として守らなければならない道。

精選版 日本国語大辞典

  物事の正しいすじみちが道理であるのであれば、この言葉の裏には何か別の意味合いが潜んでいる。この世界には何か正しい道筋があるはずだという思いである。
 理不尽とは正しい道から外れたところに生まれる。それはつまり、理不尽とは納得出来ないという感情に近い何かではないだろうか。 
 理解して受け入れることが出来ない出来事が納得であるというならば、被った損害や恩恵がその人にとって心理的に飲み込めるか飲み込めないかそれが物事を理不尽な出来事と理不尽ではない出来事にわけるのだろう。

 オーグメント達は理不尽な出来事を「悪」と捉えており、その理不尽な出来事に納得感を得る為にさらなる「理不尽な行い」をしている。故に本郷や一文字などの被害者を生んだ。故に「悪」なのである。
 だからこそ仮面ライダーである本郷猛はそんなオーグメント達を止めなくてはならないと思ったのかもしれない。まるで彼の父親が犯人を説得し、人質と犯人の両方を救おうとしたように。
 
 もしそうだとするならば、いまこの時代に仮面ライダーが作り直される意義がある。
 もともと仮面ライダーシリーズはおそらく最初のシリーズから人対人の正義の意見のぶつかり合いにならざる得ない構造を持っている。今回のシン・仮面ライダーはその表層があまりにも全面に押し出されてしまい、監督が「本当に描きたかった敵」が見えにくかったのではないだろうか。
 しかもそもそも「理不尽な出来事」を悪として定義することが可能なのかという問題も含んでいる。
 仮面ライダーというコンテンツには「悪」の定義に対する揺らぎが常に存在する。人が何かを悪と認定するのは結局のところ、嫌悪感を土台とした情操による価値判断にすぎないのかもしれない。そう言った情念的な「悪」の概念を崩そうというのが意図的ではないにしろ、滲み出てしまうコンテンツだと思う。
 そこが同じヒーローでも円谷とは異なる。(円谷のウルトラマンは常に、鎮魂と救済を描いているように思うが、それはここ詳しくは書かない。)
 しかし、昭和一作目の仮面ライダーはショッカーを地獄の軍勢であり、改造手術を嬉々として受ける異常な人間達で構成され、人類に害のある存在と描かざるを得なかった。
 つまり勧善懲悪にせざるを得ない「まっとうな」ヒーロー番組として、世に出すしかなかった現実があったのではないだろうか。
 仮面ライダーを刷新し、平成に新仮面ライダーとして生み出されたクウガの敵役、グロンギも人類を虐殺するゲーム=ゲゲルを行う人類に害を成す人類に近い生物として勧善懲悪の対象として描かざるを得なかった。
 (余談だが、こうした絶対悪としての敵役への違和感や反省は白倉プロデューサーを中心にクウガ以降の仮面ライダーで描写されることになる。例えば仮面ライダーファイズでは敵役のオルフェノクは人間に了解可能な人格を備えている。なぜならオルフェノクは死亡した人間が覚醒するまたは、オルフェノクが対象に接触して相手の体内に眠る「オルフェノクの記号」を活性化・覚醒させることで生まれるからである。オルフェノクは生前の人格を備えている場合が多く、単に殺戮好きの種族とは描かれない。この設定により物語に深みが出たとも言えるが、雑にまとめてしまうとオルフェノクがいいヤツなら共存し、悪いヤツなら倒すという真っ当な結論至らざる得ない構造を作ったとも言える)

 しかしここでひとつの問題が生じる。
 「理不尽な出来事」を「悪」として定義することが可能なのか、という問題である。出来事とは悲劇的であれなんであれ、人との関わりの上にしか生まれない。
 「理不尽な出来事」そのものを「悪」とするならば、最終的に人は人と関わることをやめなければならない。それがチョウオーグ、緑川一郎の出した答えである。
 しかし本郷も一文字もルリ子でさえもその答えにノーを突き付けている。 
 なぜなのか。
 この分かりにくさがシン・仮面ライダーの欠点であると私は思う。
 本郷は実は、自分の身に起きた理不尽な出来事を「悪」と断罪してはいない。起こってしまったことに対して優しさを持って受け入れている。
  本郷猛の被った理不尽は、父である警察官が通り魔の説得に失敗し、人質の代わりに殺されたことだ。
 しかも父の失敗を踏まえて、父のように優しくなりたいし、父のようではなく力を行使できる人になりたいさえ語るのだ。
 犯人を恨むでもなく、父を恨むでもなく、社会を恨むでもなく。
 本郷はそれをまるで実践するかのように殺害せざる得なかったオーグに対して必ず黙祷を捧げている。その行為を目の当たりにしたルリ子には「優しすぎるかも」と言われてしまう。「優しさ」という単語は作中に何度も登場する。
 本郷の優しさとは一体なんなのだろう?  
 彼の持つ優しさは、世で悪人と断罪される犯罪者達もまた、理不尽に苦しめられた哀れな人間であり守るべき者であるという感覚を指しているのかもしれない。
 それが本郷、一号ライダーが「ヒーロー」である所以なのかもしれない。
 彼のヒーロー観は決して一般的な正義とぴったりとは重ならない。
 そもそもヒーローが正義を遂行すべき存在だと誰が決めたのだろうか。
 「並」の人間であれば理不尽に父を殺され、作中に描写はないものの、父がいないことで苦労したはずなのに、上記のような優しさを持つ事は難しいと思う。
 もしかしたら緑川弘博士、ルリ子の父で冒頭でクモオーグに殺害された男、が本郷猛を最後のオーグメントに選び、ショッカーと戦う為に組織から逃したのはこの優しさとオーグメントの力の融合によって何かが変わる気がしたからなのかもしれない。(他力本願がすぎるという突っ込みはあるが)
 
 仮面ライダー=本郷猛とオーグメント達の違いは力を持った上で、優しさを持ち得るかの違いだとす仮定する。
 本郷は敵であるオーグメントの死を悼みつつも、攻撃に容赦はしない。しかしその暴力はオーグメント達の行使する力が理不尽を消す為にさらなる理不尽を生み出そうとする時にだけ発動する。
 ハチオーグに対する非戦闘的態度にも納得がいく。彼女が一般人を操ってはいるもののさほど危害を加えてはいない。(ただし改造されたショッカー戦闘員のプラーナ=魂を奪った事は裁かれて然るべきだと私は考える)
 ハチオーグが本郷の説得により、彼女の受けた理不尽を受け入れ優しさ持ち得る可能性に期待したのではないだろうか。
 
 シン・仮面ライダーにおいてはヒーローの資質とは、理不尽な出来事を受け入れ、優しさを持って他者と接し、理不尽と戦う者の事を指すのかもしれない。 
 オーグメント達は仮面ライダーであるバッタオーグも含め、同じ出自で同じモノを憎み、同じモノから開放されるために戦っている同士である。
 しかし考え方の違いから両者は分かり合うことも連帯することも出来ず、一方のオーグメント達は国家から排除対象とされてしまい、一方の仮面ライダーは政府の一派として彼らを粛清せざる得ない。
 それはまるで血を分けた家族が分かり合うことも出来ず、バラバラなことをしている悲劇にも似ている。
 ああ。だから最後は血を分けた兄弟の和解の話に終局するのか。
 思えば本郷はオーグメント一家に突然もらわれてきた養子の子のように疎外されている(比喩であることをお赦し願いたい)
 本郷猛の仮面の下には力を発動する浮かび上がる傷がある。それは単に改造による肉体的な傷ではないのかもしれない。それは心の傷の表出。どこにも居場所がない事、帰る場所がない事、ライダーキックの先に着地点がない事を暗示しているのかもしれない。
 本郷猛は「傷」を抱えて尚、「ヒーロー」として生きなくてなならない。
 一文字隼もまた本郷の意思を引き継いだ以上優しくなければならないし、「傷」を抱えて「ヒーロー」として生きていかねばならない。
 シン・仮面ライダーは本質的に孤独である。
 一文字隼は本郷と共にある。それが孤独な戦いに対して一筋の光だ。
 帰る場所がなくても着地点がなくても、人は誰かと関わり合って生きていくしかない。これは絶望と表裏一体の希望である。
 「傷」を抱えた「ヒーロー」達は拠点も持たず、最愛の女性は死に、人間味の薄い政府の男たちと疑似家族をつくるでも、仲間になるでもなく、たった二人で美しい海に跨る橋の上を走り去る。
 仮面ライダーとは孤独で帰る場所のない者。それ故に「ヒーロー」と「ヴィラン」の狭間にいる者なのかもしれない。

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