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ありのままの自分を受け入れることは絶望と共にある

「ありのままの自分を受け入れて自由に生きよう」

とても優しい言葉で、明るい未来の示唆のように思える。

「ありのまま」を受け入れることは確かに喜びもあるけれど、それと同じくらい苦しみがある。

自分を受け入れるということは、諦めることと似ている。

自分が必死にしがみついている「理想の姿」「あるべき姿」を手放すことでもあるからだ。

自分がこれほどまでに脆弱で、未熟なのだということを思い知らされるということ。

「ああはなりたくない」と見下す他人の側面が、自分の中にも存在することを、心で知ること。

こんな自分、知りたくなかった。認めたくなかった。好きでこんなふうになったわけじゃない。

怒りや、許せないという気持ちで自らの心を焼くこと。

ありのままの自分を受け入れることは、そういう絶望と共にある。

けれどその絶望の先に示された明るい未来がある。

「ないものねだりをせずに、まずはあるものに目を向けよう」

という言葉がある。

「ないものねだり」それ自体は悪いことではないとわたしは思う。

それはきっと、心の渇望の証だから。求める中で磨かれるものもあるはずだから。

ただ、「あるもの」を無視したままでは、「ないもの」はいつまで経っても手に入らない。

「ないもの」を生み出すためには、「あるもの」同士を組み合わせる必要があるからだ。

たとえば、刃物で人も自分も傷つけてばかりの人がいて、その人は刃物しか持つことができない。でも本当に欲しかったものは、暖かく人を包む毛布だったとして。

自分が刃物しか持ち得ないと知った時、誰かを傷つけてばかりだった過去を嘆くだろう。

しかし本当に刃物しか持たないからといって、できることは「人を傷つけること」だけなのか?

そうではないと思う。

たとえば、人ではなく食材を切れば、料理をすることが出来る。

動物の革や草木、土を加工して道具を作ることが出来る。

同じように人を傷つけるとしても、それが病を治すためであれば全く違う意味を持ってくる。

まずはその、人と自分の血で錆びてしまった刃をきちんと打ち直し、磨き、研ぐ。

そして、今度は違う使い方を試していくんだ。

そうすれば、助けた人に、欲しかった毛布をもらえるかもしれない。

あるいは刈り取った羊の毛を人に託して編んでもらうこともいいと思う。

変わりたければまず自分が持つものを使いこなせるようになること。

人は自分のあるものを知り、使えるようになることで、新たな可能性を開いていける。

それはかつて目指した姿とは全く違っていたとしても「それでいい」と思えるもののはずだ。

そしていつか「ないものねだり」も現実味を帯びてくるだろう。

絶望は終わりではなく、その先に行くために必要なステップ。

完全に受け入れることは難しくて、誰しもすぐにはできることじゃない。

何度も心が折れそうになるだろう。でもその度に、昨日までの自分とは確実に変わっている。

そして、そうやって生きようとすることが新たな自分を形作り、後ろを歩く誰かを照らす光になるのだと思う。

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