一人でごはんを食べられない
最近、自分の気持ちを理解するひとつの手段として、あらゆる我慢や「〜しなきゃいけない」をあえてやめてみている。
そのことで、生活が困難になってしまっても、あえてそれをやって、観察して、原因や感情を探る、みたいなことをしている。
そんな中で気付いたのは、「わたしは一人でいると、ごはんを食べられない」ということだった。
お腹がすかないわけじゃないんだけど。お腹がすいても、「食べたい」とか「食べよう」とか、心から思えなくて。苦しいけど動く気が起きなくて、そのまま身体を動かせなくなって、そのうち空腹感が麻痺して、痛みも麻痺する。
そんなわたしに、旦那は「ちゃんとごはん食べなきゃダメだよ」って言う。まあ、当たり前だよね。
食べなきゃダメなのはわかってる。
だけど、わたしは一人だとごはん食べられないから、苦しい。食べようという気が起きない。
死にたいときに、「死にたいとか言っちゃダメ」って言われてるときと似たような気持ちになる。
でも、いつも食べられないというわけでもなく、旦那が仕事から帰ってくるとお腹がすく。不思議なほどに。何か食べたくなる。
旦那はわたしに「一緒にごはんを食べること」の温かさを教えてくれたからなのかな。旦那がいると安心して、ちゃんとお腹が空く。
*
ただ、旦那とのご飯でも、自分で作った料理を食べるときは、不思議なことに心が全然満たされない。
「ひとりでもごはんを食べなきゃいけない」
「毎日、ごはん作らなきゃいけない」
そんな風に考えて、自炊を結構頑張っていたおかげで、料理のレパートリーも、腕も、自分で言うのもなんだけど、そこそこにはなった。
料理を楽しもうとしたり、お気に入りの調理器具を揃えて気分を上げようともした。
でも、これがなかなか続かなくて。やっぱり、台所に立つことが、ストレスで仕方ない。
その上、自分で作って食べても、満足感が全然得られないし、「美味しいよ」って言ってもらえても、ほとんど心に響かない。
そして苦しくなると、作れなくなって、まるで赤ちゃんのように与えられるのを待ってしまう。
こんなことを、もうずっと繰り返している。
*
「苦しいと赤ちゃんのようになってしまう」というのに気付いた時に、わたしがごはんが食べられない原因は、もしかしたら子供の頃にあるんじゃないか、と考えた。
あくまで仮説、想像なんだけど。
これは家族から育児苦労話みたいな感じで聞かされた話だけど、物心つく前のわたしは、たいそうよく泣いたそうだ。
あまりに大きい声なので、近所から苦情は来るし、脱腸(ヘルニア)まで起こすしで、大変手を焼いたらしい。
母親は当時めちゃくちゃイライラしていたと言っていた。それでも抱っこはしてくれていたらしい。けれど産休中は無給だったため三ヶ月で職場復帰せざるを得なかった。
代わりにわたしを育てた祖母は、泣いているわたしを抱っこせずほったらかしにすることにしたそうだ。そうすると、いつのまにか泣き止むから。
これを見て、どう思うだろうか。
わたしは初めてそれを聞いたとき「赤ちゃんの頃からうるさいとか、私も変わらないな。親も大変だったんだなあ」と他人事のように思っていた。
この当時は今より自分の気持ちがわからなかったから、そんな風に思えたんだと思う。
今は「何してくれちゃってんの?」という怒りがある。だってこれって見ようによってはネグレクトじゃないか。
でも、わたしが幼かった当時は、幼少期の対応がその後に響くなんて知識はそこまで一般的じゃなかった。少なくともうちの家族はそこまで考えていなかった。
「物心つく前のことはみんな覚えていないんだから、赤ちゃんの頃の体験なんて大したことない」みたいに思われていたとも思う。
でも、実際は真逆で、そのときの体験は、言葉にはできなくても、ちゃんと身体に刻まれていて、一生響いてくる。
それに赤ちゃんにも当然、感情はある。わけもなく泣く人間はいないし、泣くことはむしろ、赤ちゃんにとってはほとんど唯一の意思表示の手段だ。
赤ちゃんが泣いているのは、何かを求めているからだ。お腹が空いて苦しい、オムツが気持ち悪い、周りがうるさい、怖い、眠い、暑い、寒い。
理由はいろいろあるけれど、とにかくなにかをどうにかしてほしくて、泣いているはずだ。
そのときに、自分が安心できるたったひとりの人から離されてしまったら。一番頼りたいはずの人から見放されてしまったら。どんな気持ちになるだろう。
「見捨てられたんじゃないか」と、余計危機感を抱くんじゃないだろうか。
そして泣くしかできないから、もっと泣いてみる。でも、いくら泣いても、誰も助けてくれないのだとしたら。
そんなのすごくつらいし、苦しいと思う。
でも、どうにもできない。手足が思うように動かかせないから。
そしたらもう、なにもかも諦めて動かなくなるしかないじゃないか。
そしてもしたとえばわたしが、お腹がすいても放ったらかしにされていたとしたら。ごはんを求めても与えられないなら、それすら諦めてしまうんじゃないか。
おなかが空いた苦しみを、切りはなして。
生きたいと願うことすら諦めて。
ただやり過ごすしかなかったのかもしれない。
わたしには、赤ちゃんの頃の記憶はないけれど。
でも、一人のときにごはんを食べようという気持ちが起こらないのは本当だし、このこととの関係は、少なからずあると思う。
*
わたしに子供はいない。虐待してしまいそうで怖くて作れない。一時期、親になる資格はないと本気で思っていた。
今はそこまで頑なじゃないけど、それでも自分の子供を持つことに現実感が持てない。
たぶん、泣きわめくしかできなかったあの頃の自分は、自分で癒していくしかないんだと思う。
機会があれば、一応母親に伝えるつもりだし、セラピーとかも引き続き試していくつもり。
だって、ごはん食べられないと死ぬからね。
わたしは、生きて幸せにならなくちゃいけないから。
もしかしたら、虐待じゃなくても、似たような理由で生きる気力を持てなくなってしまった人はいるんじゃないだろうか。
確か一昔前は「赤ちゃんの頃に甘やかし過ぎると心の弱い子に育つ」なんて間違った常識がまかり通っていたからなおさら。
それは誰が悪いわけでもなく、強いて言うならその思い込みが悪い。しかも、そういうのを信じる人って真面目だから、自分の子供がなぜこんな風に、なんて思ってしまう。
本当は、真逆で。赤ちゃんの頃はいっぱい愛情を注いであげたほうが、心は強くなるっていうのにね。
そういう場合、「家族は真っ当な人なはずなのに自分ばかりが苦しい。自分は出来損ないなんじゃないか」と苦しんでしまうんじゃないだろうか。
わたしも「あなたの親御さんは立派だよ。あなたはちゃんと愛されているじゃないか」みたいな言葉にすごく苦しめられてきた。
「じゃあわたしが辛いのはどうして?」
「わたしだけが頭がおかしいのか」って。
正直、虐待の事実がないのにトラウマがあることで、ずっと自分を責めてきた。でも虐待は親の意図の有無に関係なく、子供がどう感じたかなんだって最近知った。
結果的に知識を得ることで「頭がおかしいわけじゃない」ってわかったからよかったけど、やっぱりそんなことで悩むのは時間がもったいないと思うから、そう思う人が少しでも減って欲しいと思う。
*
そして、大事なのは今まさに生まれてきた命、これから生まれる命で。
間違った育児の知識でトラウマが植え付けられるのって本当に最悪だと思うし、赤ちゃんも人間なんだって、どうにかもっと広まって欲しい。
「赤ちゃんも人間なんだ」っていうのは、赤ちゃんも自分と同じように「あらゆることを感じて考えている」と理解することだと思う。
わたしはこれを、はじめは知識から理解したけれど、自分の気持ちに気付いた時に、ちゃんとわかった。
自分の感覚を開いていれば、「言葉がなくても意思の疎通はできる」「言葉がなくても赤ちゃんなりに考えている」と、きっと感じられるはず。
そして、そのことがわかってしまったから、最近わたしは家族に会うのが辛い。
うちの兄は、自分の子供(1歳)をわざと母親から引き離して泣かせて、その姿を見て笑っていたりする。兄は可愛がっているつもりなんだろうけど、それを見ていると、正直、心が痛む。
たぶん姪からしたら、お母さんから離されて怖くて仕方ないのに、周りに笑われていたら、味方は誰もいないって感じるんじゃないだろうか。
(『田舎あるある』かもしれないけど、うちの家族はこういう無神経な感じの雰囲気が常。誰か一人を槍玉にあげて笑ったりからかったり、モラハラスレスレのことを平気でする)
これはわたしの考えすぎなのかな。違うと思うんだよね。
赤ちゃんは決して親の自由にしていい道具じゃないし、いじくって反応を見て遊ぶおもちゃでもないし、ただ疲れたから勝手に泣き止むわけでもない。
赤ちゃんなりに考えて行動を選択しているし、そこにはちゃんと理由がある。言葉は話せなくても、心はちゃんとある。
どうか、このことがもっと広まって、生きづらいと感じる人が少しでも減っていく社会になるといいなと心から思う。
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