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「どう在りたいか」と自分に尋ねてみたら

年末からの流れで、「今後は自分の意思が何より大切になる」というのはずっとあって、同時に「自分の意思を貫くことを妨げるもの」の存在が、どんどん明らかになっていた。

それらは、手放すためにやってきて、なかった事にしていた感情を認める機会をくれ、新たな気付きをもたらしてくれた。

言葉ではかんたんだけど、実際はそんなに生易しいものではなくて。正直この半年、変化についていくのに必死だった。

だから、いちばん肝心な「さて色々手放したけど、じゃあ、結局お前自身はどう在りたいの?」というところは、棚上げしていたように思う。

「余裕がない」と言い訳しながら、ほんとうはそれを見るのが怖かったんだと思う。だってそれを知ってしまったら、決めてしまったら、もう逃げる事なんてできないから(どのみち自分が見ようと見まいと、逃げる事はできないから、遅いか早いかだけなんだけど)。

年末の節目から半年、夏至もまた大きな節目だった。

この日は少し悶々としていた。

そんな中、kitomaさんの記事を目にした。

頭を殴られたような、けれどそのおかげで、目が覚めたような感覚だった。

「どう在りたいか」を問われている……そんな雰囲気は、実は薄々感じていた。というより、モヤモヤした感覚の正体を、すぱーんと言葉にしてもらえた感じだった。

そもそも、見るべきところを見ないようにしていたから、悶々としていたんだと思う。怖くて、見たくなかった。けれど、見る必要があるから、機会をもらえた。

世界っていうのは、ありがたい。必要なときに必要な言葉が目に入ってくる。見せつけられてしまうと感じるときもあるけれど、本当に大切なものは、いつもそれとわかる顔を見せてくれる。

さて、それで。読んだそのあと、すぐ。

改めて「どんな自分で在りたいか」と、考えてみた。

いや、考えてみた、というのは正しくないな。

自分に尋ねてみた。

お腹の辺りに意識を向けて、身体の力を抜いて、耳を澄ませる。

そうしたら、言葉がふっと浮かんでくる。

それが、自分の本音。

ものによっては頭の方がざわざわうるさく騒いだり、身体がびくりとこわばったりする事があるけれど、それらはただの反応で、起こるのが当たり前の事だから置いておく。

それで、その時上がってきた言葉は、

「いろんな自分でいたい」

だった。

私は、気分でテンションがコロコロ変わる。
自分の中に分断があるわけじゃないけれど、仮面がたくさんあるような感じはしている。テンションが変わるとキャラが変わるので、違いすぎて戸惑われる事も多かった。

私としては、どれも本当の自分なのだけど、周囲が戸惑うから、「これはいけない事なんだ」「こんな私はおかしいんだ」と思ってしまっていた。

だから、ずっと「私はこんな人間です」とわかりやすく言えるもの、「本当の自分」とも呼べるようなものを探すことに心血を注いできた。

けれど、自分を探す過程で、むしろ「いろいろな自分がいていい」という気付きを得て、少しずつ自分でもそう思えるようになってきた時期もあった。
だからnoteではあえて、自由に書き方を変えて文章を書いたりしていた。

ただ、そこで、自分が思っている以上に多くの人に読まれてしまった。それ自体はありがたいと思うべきなのかもしれない。

でも、その中で、「私という個人」ではなく、「私の一側面」に過ぎないものを見て、「私」を判断し、またそれを求められることに、嫌気が差す事もあった。言葉を選ばずに言えば「コンテンツとして消費される」という事に、心が磨り減って、耐えられなくなる事があった。

しかし、同時に、読んでくれる人たちが求めている「私」を必死に演じなければと、無意識に思ってしまった。縛られていた。

いろんな自分でいていい、と思ったはずなのに。縛られないように書こうと思ったのに。いつの間にか、周囲の中で出来上がった(と勝手に私が思い込んでしまった)「私」に合わせようとしてしまった。

書いたからには読んでほしかったし、離れて行かれるのも、すごくすごく怖かったんだと思う。

しかし、この一、二年ほどで、考え方も大きく変化した。noteでたくさん書いていて人に認知された頃の自分、つまり「求められる自分(仮)」との齟齬が生まれてしまったのだ。

「これ書きたい」「けれど、求められていないかも」という葛藤で、お蔵入りになってしまったネタが今まで一体どれだけあっただろう。

「今の自分の考え方で書きたいけれど、前の考え方を好んでいる読者さんにはきっと伝わらないかもしれない」「誤解されて嫌われたらどうしよう」という恐怖とプレッシャーがすごかった。

占い師としての活動を始めて、その矛盾はさらに顕著になった。

「占い師としてのペルソナ」がなかったから──つまり「どんな自分が求められるか」がわからなかったから、どんなふうに自分を宣伝したらいいかがわからなくて、私はどんどん身動きが取れなくなっていった。

一度は「いろんな自分がいていもいい」と思えたはずなのに。
気がつけば「他者から見た自分」にがんじがらめになっていた。

私の中に、いつ誰に言われたか思い出せない心の傷がある。

「そんな人だと思わなかった」「幻滅した」「裏切られた」と言われる事が、とても、とても怖いのだ。

あまりにショックで、明確な記憶を封じているのかもしれないし、言われすぎてごっちゃになっているのかもしれないし、そもそも過去世のものかもしれない。

とにかく「他人から見た自分に一貫性を持たせなければいけない」という強い強迫観念が確かに存在する。

だから、浮かび上がってきた本音……つまり「いろんな自分でいたい」という言葉には、当然頭と身体が反応した。

おでこのあたりがきーん、となった。おでこが反応しているのは、恐怖があるから。

また、焦りのような感覚もあった。これは、本当の自分の気持ちじゃないときに感じるものとも似ていたから「それは、不安からそう思っているだけで、本音はもっと別のところにあるんじゃないの?」そう言ってくる自分もいた。

けれど、お腹の中の感覚は確かに「いろんな自分でいたい」と言っていた。

不安になったからオラクルカードも引いたけど、反応しているのは、恐怖心の残滓だと言ってもらえた。だから、これは確かに本音なんだと思う。

「在り方」を問うたら「ひとつに定めたくない」と、「わたし」は答えた。

自由気ままに、演じるように。日によって服を替えるように。

他者を不安にさせたり、振り回したりするかもしれないけど。

何より、私が、自分自身の変化を楽しみたいと、そう思うから。

だからこの傷はもう終わりにしたい。

わたし自身が楽しめば、他者の不安はきっとワクワクに変わる。

自分自身を、好きなように表現する事は、裏切りなんかじゃない。
相手の期待は、相手のものだし、私の人生は、私のものだ。

夏至に考えたことなのに、出すのに時間がかかったのは、この文章を人前に出す事自体、私にとっては挑戦だから。

まだ、恐怖に身体が震えている。
本音をここに打ち込むたびに胸の奥がきゅっとなる。

けれど、怖がっている事はごまかさない。
ごまかしてしまえば、恐怖はずっとそこにあるままだ。

だから、恐怖を感じながらでも、書く。怖くても書く。

震える身体に寄り添うように、「何があっても私が守る」と、自分自身に声をかけながら。辛くなったら、休憩を入れて。立ち戻れる安全圏を確かめながら。

ひとつずつ、乗り越えていく。

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