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自分の良さがわからなくてもいい

時折、自分の「良さ」がわからなくなる。

「良さ」というのは、才能や魅力、アピールポイントという意味だ。

noteに頂いたコメントなどで褒められて嬉しいなと思うことはあるし「なるほどそう見えるのか」と思ったりする。そしてホロスコープも散々見ているので、理解はしている。

ただ、それが実感としてわからなくなる時がある。

自分の才能に無自覚な人っていうのは、周囲をやきもきさせる。「そんなに出来るのにまだやるの?」と思わせる。謙遜も過ぎれば嫌味だなんて言葉もある。

私はとても嫉妬深いので、確かに無自覚な人を見て苛立つ気持ちはわからなくもない。けれど、どれだけ褒められても、自分の良さがわからないという感覚が消えないのも事実だ。

ただ、理想はある。目指しているテイストや、表現手法、読み手に感じて欲しいもの、与えたいもの、自身の好み、などなど。私がやっていることは、それらにできるだけ近づくように、頭の中から出てくるものを整えているにすぎない。

別に「自分の良さがわからないんですよ」と言って、周囲の反応を引き出したいとかそういうつもりはない。反応は欲しいけど、謙遜をしてフォローをしてもらうのは本質的じゃないと思ってる。でも、自信がないのも本当だ。あるように見えるだけ。

実際、見る人が見れば足りない部分も多々あると思う。私自身、体系的に物書きを学んだわけではないので、細部がブレやすいし。

褒められても何やかんや「そうなんだ。でもそれ本当? 頑張って見いだした訳じゃなくて?」とか思ってしまう。そういうひねくれた人間だ。だからこそ、読んでくれる人や私を好きで仲良くしてくれる人には申し訳ない気持ちになる。

ある人に、そういう気持ちを吐露したとき、言われた言葉がある。

「自分の良さがわからないって気持ちは、そのままでいい」

曰く、それがあるから探求心が生まれ、研鑽ができるのだと。

もちろん、表現を続けていく上で、ある程度の方向性や相対的な分布、客観的な特徴は把握しておく必要はある。指針がないと迷うからだ。また、褒められた時に過度に謙遜しないよう、ある程度受け取る器も用意した方が何かといいだろう。

けれど、その内側に湧きあがる「わからない」という感情はそのままでいい。それが、自分を磨き続ける姿勢に繋がる。だからそれを申し訳ないとか思う必要はない、と。

これを言われた時、救われた気がした。

そうか。わからないから、掴みたくなる。掴みたいから求める。そうして磨かれていくものがあるのだと。

最近は、自分が書くものに対して批判的になる事は、ともすれば悪だなんて言われていたりもする。他者からの批評も、余程のことがない限り表立って行われない。特にnoteは褒め合いの文化が濃くて、コメント欄でのダメ出しはほとんど入らない。

それが悪いとは言わない。他者からの無条件の肯定や受容、粗も味と捉えられるような、異なる観点からの評価は、表現をしていく上でとてもエネルギーになるものだ。私も自分の文章を肯定してくれる人に出会えたおかげで、noteで自己表現をする事ができている。

同時に自分の生み出したものを褒めることは積極的にして行けばいいと思うし、下手でも自分の作品のここが好き、とある程度言える健全なナルシシズムは必要だと思う。私も、少し恥ずかしいけど最近ようやく言えるようになってきた。

表現を始めてからある程度の時期は、他者からの受容・肯定は必須だと思う。一部のそれがなくても書ける人は除いて、多くの人はきっとそれがないと書くのをやめてしまう。(もしかしたら、最近自分の作品を褒めよう的な話が多く見受けられるのは、表現することのハードルが下がったからかもしれない)

けれど、ある程度続けていくと、それだけでは進まない局面がある。褒められるだけでは自分に納得がいかなくなってくる。もっと上手くなりたいと、向上心が出てくる。そういう時に、自分であれ他者であれ、良い意味で批判的な評価や、客観的意見は必要になる。

そこで自己批判ができる人は、自分で自分を鍛えて勝手に成長していけるのだ。周囲から見ればストイックだなんて言われたりもするのだろうけど、きっと本人からすれば、気になるところを叩いていたら、綺麗な波模様の刃になっていた、みたいな。もちろん、苦しくない訳じゃないけど。

この言葉をくれた人も、すごく努力家だと私は思う。けれど本人は無自覚で、まだ足りないと言っている。成果物を客観視して初めて、自分の良さに気付く、そんな人だ。

批判も過ぎれば毒、それは確かだ。自分であれ他人であれ。研磨は加減を間違えれば素材を壊してしまう。健全な批判の為には、素材に対する理解が必要だ。そのためには他者からまず肯定、あるいは分析をしてもらい、指針としての健全な自信を持つことだ。

以前は、自分に自信がついたら、自分のことを卑下したり批判する自分はいなくなるんだと思っていた。けれどその自信がついても、自己批判のくせがなくなるわけではなかった。

でも、それでいい。

健全な自信がつけば、自信のなさが健全になる。自己批判の姿勢や自己無価値感は、自己客観視と、探究心に転じる。

だから、自分がわからなくなること、自信がないことを、誰に申し訳なく思う必要はない。それは武器として振るうことすらできるのだ。

そうして磨かれた刃で、これからも、この先を切り開いて行こうと思う。

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