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自分の事は自分で救う

「過去の事はもう捨てていい」そう言われる度に、苦しかった。

過去に受けた心の傷を癒そうとこれまで頑張ってきたから、「おまえの頑張っていることは無駄だ」みたいに言われたような気がしていた。

「生まれてこないほうがよかった」

トラウマ治療に取り組み始めて間もなく、心の底からずるりと出てきたのがこの言葉だった。

この世に嫌気が差したという感じではなく、どちらかというと罪悪感で。私は、自分の存在が悪で、罪人だと、根底でそう思っていた。

けれど私は、自ら命を断つ事もできなくて、だからこそ「誰かを傷つけて、自分も苦しくて仕方ない。こんな状態で人生を終わるわけにはいかない」という強い強迫観念が、私をトラウマ治療に駆り立てた。

しかし、根底で自分を罪人と思い、生きる価値がないと思う人間が、自分で自分を癒すという事は、強烈な矛盾と葛藤を生む。

例えるならそれは、世の中全ての人から人殺しと後ろ指を指されながら──実際に人を殺した訳でなくとも、感覚としてそれに近いプレッシャーがあった──、それでも自分の幸せを追い求めなければいけない、そんな感覚。今すぐ死んでしまいたい、全てを投げ出してしまいたい気持ちを、罪悪感と責任感のみできつく現世に縛り付けていた。

当時は当たり前すぎてわからなかったが、今にして思えば、そういう言葉で表現するのがちょうどいいと思う程には苦しかった。

そんな辛い治療の道程を進み続ける事が出来たのは、「最終的にはこれが誰かのためになる」という大義があったからだ。

自分はいつ死んでも、どうなっても構わないけれど、私の大事な人が私の幸せを望むから。その人を悲しませる自分はもっと許せないから。

そして、私が傷を治す過程で得たものを、同じ悩みを持つ誰かに還元する事で、誰かの役に立つ事ができるから。

それが、生きているだけで厄災を振りまく私がこの世に存在するための免罪符。

そう思って走り続けてきた。

けれど、なんだか息切れしてしまったみたいだ。
息切れしたと言うよりは、違和感を覚えて立ち止まってしまった、と言ったほうが正しいかもしれない。

まだ己の傷に気づき始めたばかりの頃、他人に「この苦しみをわかって欲しい」と不器用に訴えた。人を選ぶべきだったと今なら思うが、不安から心の目を曇らせていた私は、見込みのない人に突撃しては、「みんなそんなもんじゃないの?」「そんな所に囚われていないで前を向け」と言われた。

当時の私は「癒しを終えた人は、人の痛みに寄り添えなくなるんだ」「私はあんなふうにはなりたくない、自分の傷を癒しても、きちんと人の痛みに寄り添える人間になりたい」そう強く思った。

苦しみと罪悪感から、急き立てられるように色々な方法を試した。

その中で少しずつ癒されてきたと実感できる瞬間もあり、それはとても嬉しかったけれど、同時に「過去の自分と同じ境遇の人の痛みがわからなくなった」と感じる瞬間もあり、とても怖かった。

それどころか、癒やしていく中で「この重圧から解放されて、自分の喜びのために生きたい」という気持ちが強くなってきた。「同じ悩みを持つ誰かの役に立てなければ生きていてはいけない」という、この数年自分を突き動かしていた強い衝動に抗いたい自分が出てきたのだ。

そんな自分は許せない、と思った。

けれど、やっぱり自分のために生きたい。

ならば、全ての傷を癒すことができれば、私は私の人生を生きるために歩き出せると考えた。

それが、私に必要な贖いだと思っていた。

だから傷の癒しに必要な事だけやってきて、癒されなければやりたい事も見つからないし、見つかったとしてもやってはいけない。そう思っていた。

しかし、昨年あたりから急速に、癒やしが確実に実を結び始めたと感じられるようになり、ある瞬間から「過去のことはもういいから、未来を見なさい」そういう言葉を見たり、聞いたりする瞬間が増えてきた。

「やりたい事があったら、癒やしが完了する前に踏み出していい」
「もっと広い世界に飛び出して行きなさい」

ここにずっと留まっている必要はない。私はもっと未来を自由に生きていい、そんなふうに思わされる出来事がどんどん起きてきた。

あんなにも解放されたいと望んだのに、いざそう言われてみると怖かったし、苦しかった。これまで頑張ってきた自分を否定されているようでもあった。そんなふうに言ってくる相手が怖くて、まるで敵のように思え、距離を置いたりもした。

けれどある瞬間、気づいてしまった。
「贖い」にしがみついているのは私自身なのだと。

贖いを終えなければ自分の人生を生きてはいけない。私は罪人だから、上手くいかない。つらいのは仕方ないことだと諦めていた。

諦めたつもりで、贖いにしがみつくことで、自由に生きる事への責任や、孤独になる事への恐怖心から自分を守っていたんだ。

過去の自分を他人に見出し、他人を通して自分を救おうとする、被害者意識の塊みたいな人。自分に焦点が合わない人。そういう人が嫌いだった。けれど、何より自分が、そういう人間だった。

そもそも私がそういう人が嫌いなのはきっと、「私を救って欲しい」という気持ちを無視している自分への怒りからだ。

同じように「トラウマの癒やしを終えれば、傷付いた人の気持がわからなくなるのが怖い」という思い込みの根幹も「わかってくれなかった相手への怒り」であり、自分を守るために抑圧を選んだ自分への怒り。それが未消化のまま渦巻いていて、「自分をわかって貰えなかった時の傷」を刺激するからだ。

その怒りを勝手に「他者からの突き上げ」と混同しているだけ。

過去「わかってもらえなかった」と感じた時、相手に対して心を押し殺して迎合するような態度を取ったのは私自身。「わかってもらえなくて悲しい」という自分の気持ちを尊重してあげる事ができなかった。

当時はそれが、生存戦略だった。生きるために身につけた鎧。でも、鎧を着たからといって内側のやわらかい心についた傷はなかった事にはできない。

鎧にふさがれた傷は、日常では自分の傷であるとすら認識できない。けれど、その傷は「私と同じ悩みを持つ誰か」によって疼いた。だから私は、自分の痛みを感じるのが辛いから、相手を助けようとした。

「同じ悩みを抱える相手に寄り添ってあげたい」という、一見慈愛に溢れたそれは「私がわかってあげるから、あなたも私をわかってよ」という遠回しなエゴの押し付けだった。

100%エゴというわけではないが、相手に相対する時、私のエゴは確実にそこに存在したし、境界線が曖昧になってもいた。

誰かに寄り添いたい気持ちを否定する訳じゃない。それによって救われる人もいるだろう。けれど自分さえ蔑ろにしたり、その目的を履き違えるのがよくないということ。もし自分のために他人を救うのなら、自分がその事を自覚している必要がある。

「わかってもらえなくて悲しかった」という悲しい記憶は、相手のわかってほしい気持ちを汲み取る事では消えはしない。他人は私の代わりにはならないのだ。それどころか「私はそんな風にしてもらえなかった」と怒りすら覚えるだろう。

だから、今もなお古い記憶に囚われている過去の自分にちゃんと意識を向け、まず「"私が"わかってもらえなくて悲しかった」と、言葉にする。あの時怒りを感じていたんだと、きちんと認める。

そして私を守っていた、もう必要ない生存戦略、鎧を勇気を持って脱ぎ捨て、「これからはいつでも、私があなたを守るから」と声をかけ、私のためにきちんと怒っていく必要がある。

私の気持ちは私にしか本当の意味で理解できないし、私を救い、守り抜くことができるのは私だけだ。

これは誰にも頼らず生きていくという事ではない。むしろ逆だ。自分の素直な気持ちを理解しているからこそ、人にそれを伝えたり、必要なものを必要なぶんだけ求めることができるということ。だからむしろ、心から人と関わることが出来るから、孤独ではなくなる。

そして過去の自分の感情を認め、受け入れることは、回り回って「過去を捨てて前を向く」事に繋がる。私が置き去りにしたくなかった子供は、既に私の中にいるから、捨てる必要はない。手放すべきは「鎧」であり、「私」を切り離す必要はないと理解したから、ちょっと怖いけど、きっと大丈夫。

そうすればいずれ、誰かの力になることも叶うだろう。

いや、誰かの力になろうとなんてしなくてもいいのかもしれない。なろうとしなくても、なろうとしてしまうし、結果としてなってしまうから。

言葉と無意識のむずかしさだけど、「誰かの力になりたい」と願う事は、同時に「私は誰かの力になれない」という現実を肯定している事になる。

だからまず「私は生きているだけで誰かの力になれる」そう信じることが先なのだ。今すぐにそう思えなくても、心の中に引っ掛かりがあっても、それを成し得るのだと心の底で望み信じること。

それに際して、私はいよいよ「こんな私じゃ嫌われるかもしれない」と押し込めた自分も、解放していこうと思う。

これでも内省をたくさんして、自分の内側を人よりは出してきた方だけど、まだ出していない自分がいる。付けていることすら忘れるほど完成度の高い仮面があるのだ。その存在に気付いたのはつい最近であるほどに。

この仮面はきつく、それを外したら嫌われるかもしれないと思うと、とんでもなく怖い。けれど嫌われる代わりに好きになってくれる人がいるんじゃないかと、以前よりは少しでも思えるから、おそるおそるでも外してみようと思っている。

誰かを傷つけるかもしれない。もう傷つけているかもしれない。けれど、傷つけられることを望んでいる人もいるかもしれない。膿を出すための痛みだってあるはずだ。

周りに足並みを揃えるのをやめて全力で走り出したら、誰も追いかけてこなくて、ひとりぼっちになるかもしれない。それは本当に怖い。でも、孤独に耐えて走り抜いた先で、見たことのない景色が見たいし、まだ出会ったことのない人たちに出会いたいのだ。

「あなたと同じことが、他の人にも当たり前にできると思わない方がいい」と以前言われたことがある。

でも私は、その事もわかった上で、私と同じ当たり前を持つ人に会ってみたいし、私と当たり前が違っても、対等に渡り合える、価値を与え合える相手と、生きてみたいんだ。

持って生まれた可能性を全部使い切りたいから、はめられた枷は、これからも少しずつ外していく必要があるけれど、枷を外しつつも、枷があっても走れるくらいに鍛えられた自分を信じて、どんどん進んでいきたい。

今、過去の不安と恐怖を、未来への希望の方が上回ろうとしている。

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