《半可通信 Vol. 12.1》 あいちトリエンナーレ歩行記(中編)

 前回に続き、あいちトリエンナーレ2019(以下「あいトリ」)の鑑賞記録にしばしお付き合いのほど。今回は、豊田市を歩くところから。

 豊田産業文化センターの敷地内に移築された元料理旅館の「喜楽亭」を出て南へ向かう。豊田市駅から徒歩5分ほどのこのあたりは既に繁華街ではなく、事務所と住宅が混在するエリアだが道は広い。やがて目の前に小高い丘が迫り、そこに続く曲がりくねった道を登り切ってあいトリ専用の臨時駐車場を抜けると、旧豊田東高校のプール跡に出る。ここには数少ない野外設置の巨大オブジェ、高嶺格「反歌:見上げたる 空を悲しも その色に 染まり果てにき 我ならぬまで」が屹立している。こうした野外や、市街地の中に展示されているのを観て回るのは、芸術祭の大きな楽しみの一つだ。プール底のコンクリートスラブの真ん中を切り取り、墓標のように垂直に立てた圧倒的存在感のオブジェは、添えられた長歌と反歌(これがタイトルだ)とあいまって、威圧的ではなく、どこか静かな胸騒ぎを呼び起こす。意味は深く問わなくてもいいし、いろいろな取り方があっていいだろう。何度でも、いつまでも見ていたい作品だ。

 旧豊田東高校の敷地を裏から出れば、すぐに豊田市美術館だ。展示はもちろんのこと、谷口吉生の設計になる建物がまた美しく、居心地良い。高低差を生かし、2階の高さの戸外に設えられた広い池の水面は、まるでそのまま空へつながっていきそうに思える。
 豊田市美術館で個人的に印象にのこった作品としてはほかに、レニエール・レイバ・ノボ「革命は抽象である」もあった。事前にWebカタログの写真で見た印象よりもずっと迫力あると感じさせたのは、その大きさだ。ガガーリン像と労働者像、それぞれから両手の先端と、鎌と槌の先端を原寸大で切り出し、そこに置く。壁にはスローガンなどを消したロシア・シュプレマティズムのポスター。元々与えられていた意味を引き剥がして提示するという方法論は一般的だが、引き剥がされたのが社会主義イデオロギー、というところが作品の強度を高めている。
 スタジオ・ドリフトの「Shylight」も印象的な作品だった。高い天井から逆さに吊るされた、いくつもの白い花の蕾のようなもの。それらが、何かに感応するように、ランダムに上下動し、開き、閉じる。その動きがまるで生きているように感じられる。それは、植物の花や葉が光や温度にあわせて開閉する「就眠運動」という動きを分析し、テクノロジーでシミュレートしているからだという。しかしそういうバックグラウンドを知ってなお、わたしたちはその動きに魅了される。真下のフロアには円形状にクッションが並べられていて、何人もの人が仰向けに寝そべって、飽かず眺めていた。社会問題や歴史にコミットする展示が多く、かつ注目を浴びがちなあいトリだが、こうした認知を揺さぶるような作品にも見るべきものがあり、実は事前に予想していたよりも多彩な芸術祭だという感想をもった。例の事件があってなお、前回より約1割も来場者が増えたというのも、そうした内容の豊かさがあってのことだろうと思う。

 せっかくなので、豊田市エリアの展示をもう一つ紹介したい。小田原のどかの大掛かりな組み作品「↓ (1946-1948 / 1923-1951) 」は、研究者でもある小田原が、日本の公共空間における彫刻を「長崎の爆心地の彫刻・モニュメント」と「戦前の武人・軍人像の跡に登場した裸婦像」の2つの軸から解き明かそうと試みる。おそらく氏のこれまでの研究と表現の一つの集大成と言えそうな展示だ。
 展示は3つのサイトから構成され、1つめには残り2つのサイトのインスタレーション作品を制作した背景となる資料が展示されている。また、その展示意図を詳細に解説した論文を、タブロイド判の新聞として配布している(Web公開がないのが残念だが、他の小田原による記事[これなど]からも片鱗は確認できる)。これらから、長崎の爆心地における公共モニュメントが「慰霊」と「祈り」(ある意味、立場性から脱色された)との間で引き裂かれ、綱引きされてきた歴史や、軍人像が撤去された台座に裸婦像が設置され、それが全国に広まった経緯、その背後にある日本での彫刻の受容や教育のさまざまな問題を意識させられる。そして2つめのサイトは、同じく豊田市駅下のモール内の隣の部屋、そこには長崎の爆心地にかつて建てられていた「矢形標柱」を象る、真っ赤なネオンの矢羽根が突き立っている。GHQにより慰霊を禁じられていたために、市がおそらく関与して建てた爆心地を指すだけのモニュメント。そこに、何重にも屈折した、生々しい「公共の意思」を見る。そして第3のサイトは野外にあり、軍人の騎馬像がかつて据えられていた台座そのものを再現している。台座は戦後、「平和の群像」と題された三体の裸婦像を据える際、軍人像の銘を含む上部を切り取られたが、このオブジェはそれ以前の姿を再現し、その上に登ることができるようになっている。武人・軍人像の視線を体験しつつ、裸婦像の乱立した時代にも思いを馳せる場所となっている。
 美術史が好きな私にとっては、これはこの上なく興味深く、夢中にさせられる展示だったが、一般にどのように思われるかはわからない。だが、少なくとも印象派以降のアートは、何らかの形で認識の変容を迫るものだったし、その意味でこれは現代アートの正統の一つの形だと思う。あいトリの充実ぶりは、様々なアプローチで認識を揺さぶる作品を取り揃えたことにあると言えるだろう。
 その意味ではまだまだ話は尽きないので、また次回

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