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“騎士団長殺し”読書感想文36. 《アラナイの顕現または降臨》


“雨田に会うのは久しぶりだった。彼は三時前にクルマを運転してやってきた。手みやげにシングル・モルト・ウィスキーの瓶を持ってきた。私は礼を言ってそれを受け取った。ちょうどウィスキーが切れかけていたところだった。彼はいつものようにスマートな身なりで、髭をきれいに刈り込み、見慣れた鼈甲縁の眼鏡をかけていた。見かけはむかしからほとんど変わらない。……

そして私は、自分がとても久しぶりに「絵を描きたい」という気持ちになっていることを彼に話した。二日前、免色に依頼された肖像画を仕上げてから、何かつっかえがとれたような気持ちになっていること。肖像画をモチーフにした、新しいオリジナルのスタイルを自分は掴みつつあるかもしれない。それは肖像画として描き始められるが、結果的には肖像画とはまったく違ったものになってしまう。にもかかわらず、それは本質的にはポートレイトなのだ。………

「いいよ、それでいいから見せてくれないか?」私は彼をスタジオに案内し、描きかけの『白いスバル・フォレスターの男』の下絵を見せた。黒い木炭の線だけでできた、ただの粗い骨格だ。雨田はイーゼルの前に腕組みをして立ち、長いあいだむずかしい顔をしてその絵を睨んでいた。「面白いな」と彼は少し後で、歯のあいだから絞り出すように言った。私は黙っていた。「これからどんなかたちになっていくのか、予測はできないが、確かにこれは誰かのポートレイトに見える。というか、ポートレイトの根っこみたいに見える。土の中の深いところに埋もれている根っこだ。」、彼はそう言ってまたしばらく黙り込んだ。「とても深く暗いところだ」と彼は続けた。「そしてこの男は―男だよな―何かを怒っているのだろう?何を非難しているのだろう?」「さあ、ぼくにはそこまではわからない」

「おまえにはわからない」と雨田は平板な声で言った。「しかしここには深い怒りと悲しみがある。でも彼はそれを吐き出すことができない。怒りが身体の内側で渦まいている」……


“私”が以前に商業的に生み出していた肖像画の評価が高かったのは、おそらく描かれる人物の社会的なステータス、個人的なオリジナルな正の面を吟味しつつ、作者の感謝とクライアントに何らかの正のエネルギーを付与して描いたからかもしれない。しかし“私”そのものが、ある意味超自然的な、自分の平面からの墜落災難にあい、虚飾を剥ぎ取られた本能的獣の段階にまで追い詰められたことから、非文化的な野性の眼、感覚に立返らざるをえなかった。したがって免色の肖像画を依頼された時、表面や表層を描き取るのでなく、免色の本体エネルギーそのものの造形に対する把握、透視が可能になっていた、と思われる。フォルムもスタイルも取り払われた、霊体、アストラル体などの免色霊そのものを、例えばキュビスム、抽象画のようなやり方でキャンパスに固定したのではないか?本来、肖像画とか肖像写真に縁の無かった江戸期の日本人や呪術的文化を持つ人々は、写真を撮られたり絵に描き取られたりすることを、魂を取られると、本能的におそれた。免色もまたそのような自己の透視や霊視を無意識に期待して、対面作成にこだわったのかもしれない。彼自身、特殊な自分自身と一族家族に関わる出来事に憑かれていた。ゆえに“私”の透視肖像画を見て、魅入られた。自分自身の深淵から免色自身が覗き見られたのだろう。もう一人の自分、宇宙的な自分を引き出され、描きとめられることから、免色自身の自覚しえなかった運命が動き始める。

そこにもう一人の透視能力者が登場する。雨田政彦にはエネルギーを掴まえ固定する力、技術はない。しかし、掴まえられ固定されたエネルギーを透視追跡する異能を持っている。『白いスバル・フォレスターの男』が雨田に透視されることで、生霊として、この舞台裏に参加したかもしれない。

さらに透視能力の系譜は雨田の父、雨田具彦にさかのぼる。雨田画伯は、傑出した芸術家であり、その力の本源は透視能力、見神力にあったかもしれない。その彼が、まだ数十年前にすぎない、ナチスドイツの顕現するウィーンの地で遭遇した事象とは歴史的なものであったと同時に、霊的なものであった。生きたまま心臓を引き抜かれるような形で、故国に救い出された画伯には、暗黒の闇が取り憑いていた。ウィーンで生き別れ死に別れた運命の人々の生霊死霊が、彼の周りに一団となっていた。まるで沈没したタイタニックの中の世界で永遠に続く舞踏会のように。それらの時間空間を歪めるほどの、いわば時代エネルギーと格闘し、形の中に捉える戦いが、雨田画伯の戦後だったと思われる。“騎士団長殺し”とは、そのような、ウィーンの仲間たちと生死をともにできなかった一人の若者の生涯にわたる鎮魂とも言える。

さらにさらに、時代の鎮魂は人間と人間霊だけには終わらない。民族が滅亡に瀕するとき、人類そのものが絶滅する時には、民族霊や時代霊、ユダヤ・キリスト教圏や世界中の神々もまた臨場するからだ。日本人一人一人には祖先霊や祖先を守護した祖先神、自然神の守護が背後頭上にあった。戦火や大量死の上空には神々の雲が垂れ込めていた。そして現在、晴れと雨の境界線上の屋敷に、痴呆症の雨田画伯が召還したアラナイが顕現しようとしている。

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