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一種の郷愁にとらわれて

久しぶりに2015年に他界した親友が夢に出てきてくれた。私がnoteにあれこれ書くのが、電磁空間から複数の読んでくれる人達の意識にも共有され、あちらに届いたのかもしれない。SNS空間は人間の文化的無意識層への入口とも言える。
明るい列車の中に通路を隔てて親友が座っている。車窓からは明るい町中の景色が過ぎてゆく。「よー!これは西武線か?西武池袋線なのか?」と、私が問いかけるが、親友は無言。それだけの夢。
彼は日大芸術学部だったので江古田、桜台、練馬から、入間、秩父に至る沿線は庭のような感覚だった。たいへん苦労しながら、卒業後、日大仲間と共同アトリエを尾久に持った。よく訪ねたものだ。連想は広がり、親友が結婚して住んだ椎名町の記憶。彼の芸術人生最晩年期には、アーティストとしては一歩退き、先輩の経営するディスプレイ会社で、財務担当として辣腕をふるい、銀行にも厚い信頼を再構築、先輩の会社を立て直した。さらには村上隆氏の当時のニューヨークオフィスにアプローチし、大きなプロジェクトを引き寄せつつあった。しかし同時に先輩オーナーの嫉妬を深めてしまった。ありがちな話だが、深刻な状態となり、彼は重度のアルコール中毒に陥った。それからはまさに転げ落ちるようだったというか、自宅の階段から落ち、腰と背骨に重症を負った。私は徐々に奥さんと連絡を取り、様々な策をこうじた。私は故郷の実家から彼と連絡を取りつつ、ミシュラン料理人とこだわり農家のコラボ企画を進め、彼も病床から面白いと評価してくれた。そしてリハビリにかかろうとした時に、急性咽頭がんで、あっという間にいってしまった。今朝の夢は彼の七回忌の挨拶だったのかもしれない。
思えば尾久のアトリエで彼に紹介されたNという女性もまたアーティストとしてより、プロデューサーの才気にあふれ、当時すでにスポンサーを得てプラハによく行っていた。親友のニューヨークプロジェクトは彼女にインスパイアされたのかもしれない。回想が進むにつれて、私も本来は彼らのような芸術周辺人生に入るべきだったかもという、一種の郷愁にとらわれて、たまらずまだ暗いベランダに出て墨絵のような世界を眺めた。半月のもとすべてが静まっていた。

■画像はナショナルジオグラフィックより。

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