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想像できない悲しみがそこにあるはずで

この投稿は、戦禍に巻き込まれた人をひとりの市民として支援する人たちを支える活動をする一般社団法人戦災復興支援センター(WDRAC:ワドラック)アドベントカレンダーへの寄稿として書きます。

1年が残り2週間を切ってくると、忙しない日々の中でもふと今年の振り返りをしたりする。僕にとって2023年は、例年以上に盛りだくさんな1年だった。
そして、弘子ばあちゃんが亡くなった年でもあった。


弘子ばあちゃんとは、東大阪市に住む父方の祖母のこと。父は4人兄妹でそのみんなが関西に住んでいたこともあり、親戚付き合いに恵まれた。いとこは10人いて、昔から花見、お盆、クリスマスに餅つきと、ことあるごとに楽しい集まりがあった。要するにそれは弘子ばあちゃんの息子娘と孫の集まりでもあって、楽しい大家族の起点にばあちゃんがいた。

基本的に弘子ばあちゃんはどしっと構えていてちょっとやそっとのことでは動じない「強い」イメージだったが、亡くなる直前は強いと思っていたばあちゃんでも「痛い痛い」というようになったそうで、僕の親たちも不安を抱えたり治療や介護の方向性を考える日々だった。実際に薬の投与について「どう思う?」というLINEが父から来たこともある。近くに住む叔父叔母を中心に親世代が自宅療養のお世話を続け、そして今年9月末日に亡くなった。

その知らせを受け取ったのも父からの連絡だった。最後に「やっと楽になれたんだと思いたい」とあった。今年の年末までもたないかもしれないという話を聞いたのが年明け、今のうちにと思って会いに行った4月末。「もう危ないかもしれない」と最初に連絡をもらったのも5月だった。そこから持ち直して踏ん張っての9月だった。

心の準備をする時間はたくさんあってゆるやかだった。だから葬儀や通夜でも、家族の多くがひどく悲しみに暮れるより「今までありがとうね」という気持ちで穏やかにいられたんじゃないかと思う。

それでも、出棺の時は涙が浮かんだし寂しいと思った。父や叔父、叔母たちはどんな気持ちだったんだろうか。次に帰省した時には聞いてみようと思っている。


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親しい人、大切な人が突然いなくなるというのはとても悲しい。たくさんではないけれど何度かは経験もあって、それは知っているつもりだ。一方で今の自分には決して簡単に想像できない悲しみが、世の中にたくさんあるんだろうとも思っている。

その数あるうちのひとつが、いまのウクライナやロシア、ガザやイスラエルで起きているような戦争・紛争の中で大切な人を失う悲しみだろう。

WDRAC(ワドラック)という団体のボランティアメンバーとして、「支援する人を支援する」活動に2022年3月から関わり続けている。この1年半ほどで随分と戦争に関するニュースを追ったり、現地のことに想いを馳せる時間が増えたと思う。以前よりという意味でも、この活動に参加しなかった場合の自分と比べても。

ニュースを追えば、どこで空爆があり、どこで戦闘があり、人が何人負傷して、何人亡くなったかという情報が出てくる。辛い気持ちになる。でも、辛い気持ちになっているだけでもある。数字を読めても、その被害にあったひとりひとりが感じる恐怖や悲しみは本当のところ、ここで暮らす自分では想像できるものではないはずだと。

戦禍に巻き込まれ、誰かの暴力によって、それも時に「戦争だから」などとくだらない理由で、家族を失う人が世の中に存在している。場合によっては、ひどく凄惨な形で。

いつかくるその時を覚悟をして祖母とゆるやかな別れをした自分とは違って、突然、家族と日常を奪われる人が、街中に溢れる。それが戦争状態ということかもしれない(この場において断定は何もできない)。

今年、徐々に日常が戻り始めているように思えた首都キーウが再び激しく空爆され、WDRACが支援しているアンサングヒーローのひとり、オレグの家が大破した。たまたまその時オレグは外出していたので無事だった。知人が戦争で殺されるという経験の一つ手前だった。

そして9月に、アンサングヒーローであるサイモンとトラヴィスの団体と連携して活動するフランスの人道支援団体のメンバーが、ボランティア活動中に空爆を受け、殺されるということが起こった。ショックだった。恐ろしく、悲しいことだと理解はしたけど、どうしてもすぐに気持ちがついてこなかったところがあって、ただただショックでやるせなかった。亡くなった方の家族や友人たちの気持ちを想像して理解しようとした。できなかった。できるものでは決してなかった。

理解できない自分に、その人の身を案じ寄り添う資格はないようにも思えた。自分が「知らない」ということを改めて知った。


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WDRACの代表のアキラさんがウクライナへ現地視察に向かい、サイモンとトラヴィスと行動を共にしたのは6月のこと。その記録はアキラさんのnoteWDRACのYoutubeチャンネルで更新しているラジオ番組で発信されている。

印象に残っているのは、イルピンという街の孤児院を訪問した話。0歳から8歳の戦争孤児が30人ほど、そこで生活をしていて、訪問時には乳幼児がほとんどだったがそれ以前にはもう少し大きい子供たちもそこにいたという(その後、他の施設に移動したらしい)。近くには、大虐殺の現場となったブチャという街がある。

イルピンの孤児院

幼くして、親を殺された子供たちはこの先に何を思うのだろうか。物心つく前に親を失い、それが戦争のせいだと知った子供たちは何を思うのだろうか。アキラさんはnoteの中で「僕は年齢を重ねていろんな経験を積んだり家族を持てたおかげで、親を亡くした子の気持ちと、子を亡くした親の気持ちの両方が想像できるようになった」と書いていたが、自分はまだできるとは言えないなと思った。できるだけ、簡単に「わかる」とは言いたくない。

だけど、そういった境遇にある子どもたちに自分は何かできないだろうかという気持ちになる。自分が仕事柄、子どもたちに囲まれて過ごしていることもあって、子どもたちが笑顔になれない、幸せになれない世の中はなんとかできないかという気持ちがある。


僕にはまだ、その悲しみはきっと大きさすぎて想像できないけれど。


「想像できないからこそ、向き合い続けるのかもしれない」と自分で言い聞かせてみる。

想像できないほどの悲しみがそこにあるはずで、それを簡単に「わかる」と言わないで(言えるわけなくて)、でも苦しんだり困ったり、悲しい気持ちになったりする人がいることを知ったら、その人のために自分にできる何かをしたいという気持ちで行動できるようでありたい。
 
想像できないからこそ、見ようとして、知ろうとして、聴こうとするんだと。そうやって少しでも近づくんだと。


アンサングヒーローのパトリチアが活動する施設の様子。避難してきた子どもたちが多くいる。


僕がこの活動に参加したきっかけは、アキラさんが最初に活動を始めることを宣言した投稿の中にある。

「いっしょにやりたい」と思う方は、声をかけてください。
「自分にもできることがあって、これは他人事じゃなくて、微力だけど無力じゃなくて」という人は特に勇気を出して声をかけてください。

戦災復興支援センター(War Disaster Reconstruction Assistance Center、略称WDRAC)」を始めます。


自分の想像に及ばない悲しい出来事がある。遠い国には違いないけど、「遠い国のことだ」と目をつぶってしまわずに、知ってしまったからには眼差しを向け続けられたらと思う。無力じゃなくて、微力でいたいと思っている。

男が浜辺を歩いていると、打ち上げられたヒトデを海に投げ入れている少年がいた。
ヒトデは浜辺を埋め尽くすほどの数だった。
男は少年にこう尋ねた。
「1つずつ投げていても、何も変わらないのではないかね?」
すると少年はヒトデを手に取り、こう答えた。
「こいつにとっては大きな変化さ。」

(Loren Eiseleyの短編集The Star Throwerの一節を意訳)


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今年よりも来年、その先もちょっとずつ、できることを増やしていけたらと思っています(個人的な抱負)。WDRACは代表や理事も含め、みんなボランティアで主にオンラインで活動しています。仕事や暮らしの間に、自分の強み(時に専門性)を活かして、できることをできる範囲で行っています。「モブも集えばどうにかなる」と書いた仲間の言葉が好きです。

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