『蘭之助、もう吠えないのか』

「おいは犬ではなか」
美貌の若侍はそう呟いたが、彼の魂を刈り取らんとする妖怪は彼とは別の見解を持っていた。
妖怪は彼に、犬の鳴きまねをすることによって任意の敵を一人、爆殺する能力を授けた。理由は特にない。侍が泣きながら、己の力の足りなさに、その弱さの悔しさに男泣きしながら犬の鳴きまねをする姿を見てみたいと思ったからだ。
侍が犬の鳴きまねを使ったのはすでに三度。
最初は、妖怪と会ったその日の晩であった。地蔵堂の前で屈強な野盗の上半身を、刀を持たぬ侍がひと鳴きで粉微塵にしてぶちまいた。侍は泣きながら地蔵を洗ったが血の染みは落ちなかった。野盗の刀は無事だったので拝借した。
二度目は追手の先輩郷士、親の仇が送り込んできた侍だった。道場ではどうやっても敵わなかった大柄な郷士も、わん、の一声で吹き飛んだ。ちぎれた腸が旅籠の軒にぶらさがって揺れた。妖怪は腹を捩って笑い、侍はそんな妖怪を殺すためにもう一度犬の真似をしたが、当然ながら効かなかった。
三度目は、一晩の宿を求めた寺社で手籠めにされそうになっての大爆発だ。痺れ薬を飲まされ、侍を布団に転がした坊主が宣うに「ほれ、犬の姿勢じゃ、かわいらしく鳴いてみい」。坊主は爆裂する自身のはらわたの勢いで襖絵を突き破って庭まで飛んだ。


侍は郷里から逃げて江戸を目指している。藩邸に兄が居る筈だった。兄に、郷里で起こった謀反の真相と、父母の無念を伝えなければ。
妖怪は侍を囃し立てる。犬の真似さえしておればお前は三国一の爆殺剣士よ。お主の喉笛ひとつで陰謀の主を爆殺すればいいではないか。
「おいは人間ぞ」
侍の両親は、犬のように縄で繋がれて殺された。侍はそれを犬の檻に隠れて見ていた。今や殿中は得体の知れぬ妖怪が蔓延る魔窟と化している。
「おいは妖怪でん、犬でんなか」
そんな美剣士を狙って迫るは第二の刺客、南蛮よりの奴隷商人、ワンニングズ・ケンネルであった。
続く

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