「蘭之助、もう吠えないのか」(21話)

発端

妖怪には目的があった。
若侍の魂を刈り取り、肉を喰らい、己の血肉とすること。妖怪に屈服した美しき侍のはらわたを味わい、かつての能力を取り戻すこと。一人分で足りなければ二人、二人で足りなければ十人。憎い仇に届くまで、果てなく喰らい、奪い続ける。蘭之助はただの、そのひとつめの贄でしかないはずだった。

己に依存させ、己の能力なしでは立ち向かえぬ強敵と立ち合わせ、一番いいところで能力を取り上げる。
敵を前に、必死で犬の鳴き真似を続け、犬と同じように斬り殺される侍の姿を想像すると妖怪はたまらない気持ちになった。人間は、わんわんで効かなければきゃんきゃん鳴くだろう。やがて刀疵も増え、侍は喉を鳴らすような声でしか鳴けなくなる。
傷だらけになり、立てなくなって、そんな侍の前に妖怪が顔を見せたとしたら、一体どんな顔をするだろう。

だが、目の前に広がる光景はどうだ。
蘭之助は堅くねじった手拭いを咥え、剣を振る。死の前まで追い込む荒い稽古のようだ。声を出さず、食いしばって歯を粉砕せぬように噛む猿轡と同じだ。
声を封じて蘭之助は、己の力のみで猩猩と渡り合っている。

横薙ぎに振る。猩猩の毛が、ぱっと散る。浅い。
振り切った隙に、別の猩猩から背中を蹴られる。倒れ込む勢いを活かして転がり、突く。ずく、と手応えがある。突き刺さった刀を猩猩が思わず掴む。蘭之助が剣を引くとぼろりとその四指が落ちた。

ぎええ、と悲鳴が響き、あたりの空気が一変した。侍を嬲っていた他の猩猩たちは飛びすさり、闇に隠れた。深傷を負った猩猩だけがよろめきながら蘭之助と対峙している。
暗い堂に、蘭之助の鼻息だけが、荒く響く。

面白くない。

妖怪の胸に得体の知れない気持ちが浮かんできた。己の力を借りずに倒せる相手ではないはずだ。それは確かだった。
たった一体、油断した猩猩をまぐれで斬っただけだ。本気になった猩猩たちのおそろしさを侍は知らない。もう猩猩たちは侍で遊ばない。姿を見せず闇の中、見えない角度から指ひとつぶんずつ、何度も何度も肉をちぎり取られて侍は死ぬ。己を頼らなければ他の未来はなかった。

しかし、妖怪には、それでも侍が生きるために必死で鳴いている姿を想像できなかった。
侍は犬のように鳴かず、ただ、泣いていた。

妖怪が指を鳴らす。
手負の猩猩の腹が爆ぜた。信じられないものを見る目で妖魔は己の臓物が描いた赤黒い跡を見る。
妖怪は両手を鳴らした。ばちばちばち、と闇の中に潜んだ猩猩たちの腹が順番に爆ぜる。ぶげ、ぎゅう、と汚い悲鳴が続けて響く。堂内に死とはらわたの臭いが満ちる。

一拍を置き、蘭之助が手拭いを毟り取って叫んだ。

「要らんこつば!!」

叫ぶ侍の頬は涙で濡れている。

「こんた、おいの仇ぞ!」

蘭之助は大声で叫び、這いずって逃げようとする猩猩の背中から剣を振り下ろした。肩から袈裟斬りに両断され、猩猩は息絶えた。

「おいの、おいの仇ぞ!!」

蘭之助には妖怪の姿が見えていない。悲痛に彼の叫び声だけが響いた。おう、と侍の慟哭が響いた。若い侍は大きな声をあげて泣いた。

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