白蔵主天狗は雑にととのえるのか(序)
最近、サウナの話をよく聞くのと、オススメいただいて夏休みにうちの人と出かけた「庭の湯」が良くて、ほんのりと「これが噂の『ととのう』なのか!?」と思ったことなどがあり、時折隙を見てサウナに出かけている。
近所の銭湯にもサウナつきのところがあって、行ってみたのだけど、どうにも「ととのう」が分からん、というのが実のところ。なんとなくの講座みたいなものを見て仮説は立てているのだけど、生来の諸条件が影響してわたしは「ととのう」と相性が悪いのでは?というのを考えているところ。
『ととのう』手順として聞いたものを総合すると、雑には、
(1)サウナの中で熱される
(2)水風呂でガッと冷ます
(3)ととのう
というものらしい。理屈でいうと、暑さを耐えるために脳内で分泌された「つらいのを我慢するアレ」が出た状態で、脳に気付かれないような速度で物理的に体温をガッと下げ、脳は「つらいのを我慢するためのアレ」を出しているが、肉体はつらくない状態に戻っているというバグを作り出し、出て来た「つらいのを我慢するためのアレ」の行き場をなくすことによって、「つらいのを我慢するためのアレ」を「麻薬的快楽物質」として摂取する、ということかなと思う。
そんな感じで理解すると、一般に言われている手順としての「水風呂で体を冷やしすぎない」「水風呂の後で体を拭く」などのものは道理が通っているし、その手順を踏めばイケそうな気がする。なるべく肉体を刺激せず、脳を騙した状態にしておくのがいいのだ。脳が「あ、体冷えたな」と思ってしまってはいけないし、ほどほどで止めたとしたら、外気浴をする段になって意図せぬ蒸散による温度低下もダメなのだ。
非常に理屈としては通っている。
ただ、これが実にわたしの肉体と相性が悪い。脳がバグってくれないのだ。一度ランナーズハイを味わいたいと思って試したときもそうだったが、苦痛を苦痛として「味わってしまう」傾向があるというのと、おそらくは頑丈すぎるせいでサウナを出た瞬間にある程度脳が「もう大丈夫」として認識してしまうのがよくない気がしている。
このへんは、乗り物にクソほど弱いせいで後天的に獲得した「好きな時に食道の蠕動を逆転させて吐ける」というスキルと、そのサイドエフェクトとしての「よほどでない限り、嘔吐衝動を止めることも自在」というスキルが邪魔しているような気がしてならない。どの辺にどうやれば肉体に「言うことを聞かせることができるか」というのを割と脳が理解してしまっているのがよくない。
もっというと、五年くらい前に発症した重度の喘息属性のため、呼吸の苦しさに関しても大分耐性を獲得してしまったのも大きい。発作が起きると、流石にひゅうひゅう言うのだが、そこに「つらい」がない。呼気中のNo数値だけ見るとマジで重度、クリニックでも記録を出して同情されるレベルだったのだが、本人的には死を回避するための身体の動かし方が見えるというか、こうしていれば大丈夫、がある(薬が効くのも多分大きい)。
事故的に死ぬことはありそうなので油断はできないが、食道、気管は支配下である。咳さえコントロールできれば、肺さえ無事ならそうそう死ななそうではある。
つまりわたしは、高温やら酸欠、病魔の中で自分を追い詰めるのが、たいへんヘタクソなのである。脳が危機を感じてなんかを出すハードルがメチャクチャ高いともいう。
まーそんなわたくし、それでも「庭の湯」では大分きもちのいい思いをした。冷たすぎない桶からの水かぶり、適宜の水風呂、あがってすぐ新品のタオルで体を拭けて、そこからすぐ長椅子でごろんと寝られるのはメチャクチャよかった。たいへん気持ちよかったしなんならそのまま寝てもよいような気がした。最高の体験だったことは間違いない。
ただ、それは単に「気持ちいい」であって、「ととのう」ではないのでは?という思いが非常につよい。脳がバグってない。起きていることを認識しつつ、そのうえで「ちゃんと気持ちいい」。脳が何も考えられなくなるような、そういう濃密なバグ体験ではないのだ。うーん。いや、気持ちいいんですけどね。
何度か繰り返すうちに、脳がバグりやすくなるというのもあるかもしれないと思って条件を変えたりして何度か試したのだけれど、やはり回心が起こらぬ。強いて言えば、呼気がハッカのような、吸うにも吐くにもちょっとだけすうすうする感じを何度か味わったのだけど、それの根拠が分からぬ。若干のバグが発生していたのかもしれないけど、どうにもわからぬ。
いましばらく「ととのう」のために頑張ってみようとは思うが、ととのえるかどうかは少し謎だな、と思う。
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