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ある新聞の最期を見届けた話

著者: 六甲茂子(ロコモコ)

昨年末、ハワイの小さな地方紙「ハワイ・パシフィック・プレス」(HPP) が廃刊しました。

ハワイ・パシフィック・プレスとは?

英語と日本語で書かれた月2回発行の新聞で、ターゲットとなる読者は、ハワイ在住の日本人・日系人シニアとその家族。

社長兼編集長のN氏は沖縄出身。「日本人・日系人史の記録者」をスローガンに 1977年11月の発刊以来、一日の休みもなく働いてきました。

内容は、ハワイの時事ニュースやインタビュー、日系団体の催し、日本のニュースや健康相談、日本語レッスンやハワイの人々による短歌・俳句の投稿など。

かなりカタブツかつローカルな内容で、長年にわたる熱心な愛読書の方々に支えられてきました。ハワイ州知事や市議会、日本国総領事館から表彰を受けたこともあります。

HPPと私

私とHPPの出会いは、学生時代に遡ります。

当時、ハワイ出雲大社でボランティアをしていた縁で、社長のN氏に紹介してもらい、インターンのような形で働く事になったのです。

何人か記者はいたけれど、殆どは社長と二人きりでの仕事でした。

N社長は初老の豪放磊落かつかなり破天荒な人物でした。

悪気は無いものの、誰にでもセクハラまがいの言動を繰り出したり、歯の浮くような事や失礼な事、シモネタなどを度々口にするので、各所で顰蹙を買ったり敵を作ったり。

でもそれ以上に熱心なファンを多数抱えるカリスマ性のある人物でもありました。

色々な人に、彼の元で働くのは大変でしょう? と訊かれましたが、全然そんな事はありませんでした。

厳しいけれど、非常に真摯に新聞のイロハを教えてもらいました。ダメ出しもやたら多かったけれど、古き佳き新聞人の矜持の様なものを学べた事が、今の私の何よりの財産となっています。

当時は学生だったので、週に3回、授業の後に新聞社に通いました。

毎日山と積まれた翻訳から始まり、時事ニュースの執筆、ニュースの要約などなど。猛烈なペースで回ってくる仕事をちぎっては投げ、ちぎっては投げしながら、段々とペースに慣れていきました。

その後大学と大学院を卒業し、地元企業に就職。一方、HPPでも正式に働き始めました。辞めるに辞められず。

ハワイは物価が非常に高いため、二足のわらじは一般的なのですが、日々の仕事を終えた後、新聞社に行って夜の9時まで働くのは流石にきつかったですね。若かったからできたのかな?

小さな事務所で社長と机を並べて、来る日も来る日も記事を書いていました。活躍する日系人へのインタビューが一番好きな仕事でしたね。

この様なタイトなスケジュールを毎日毎日繰り返しているうちにあっという間に10年、そして20年! 私自身も結婚し、ハワイにすっかり馴染んでしまいました。今や煮ても焼いても食えない中年です。

新聞辞めるからね

N社長もすっかり歳を取り、75歳を超えた頃から度々、故郷沖縄での老後について語るようになりました。

一度沖縄に里帰りした際、「沖縄県立図書館に新聞のアーカイブを全て置いて貰えるようになった」と非常に喜んでいました。ハワイ大学図書館にもアーカイブが置いてあるので、もう心残りはない、と。

で、遂に「今年の春で新聞辞めるからね」と。

でも、そう言い出した矢先、新型コロナウイルスのパンデミックが勃発したためジャーナリスト魂に火がついて、2020年最後まで新聞を出し続ける事になりました。

新聞が無くなると聞いて、紋切り型ではありますが、心にぽっかりと穴が空いたような気持ちでした。以前は、辞めたら楽になるだろうな…なんて、たまに考えてもいたのですが。

でも、44年の歴史をここで終わりにするのはしのびなく、僭越ではあるけれど、私が会社を買おうと思ったのです。

恐る恐るN社長に切り出したところ、こう言われました。売るのが嫌な訳ではない。無料で譲ってあげたいが、新聞と言うビジネス自体に未来は殆どなく、借金が嵩むばかりだ、と。

たしかに、ハワイの英語紙も軒並み苦境を強いられ、さらにコロナ禍にあって、各新聞はどんどんページが少なくなりつつあります。

なので、社長ももう80歳だし、ここでスッキリと幕を引きたいと言う意思を尊重する事にしました。

読者の皆様に感謝

その後は記事を書きながらも、限りある時間が何ともつらくて、油断すると涙が出て困りました。

社長の引退パーティーを盛大に企画したかったけれど、コロナ禍でそれもできず、ただひっそりと去って行くしかないのか、と。

ついにある日、「廃刊のお知らせ」を日本語と英語で紙面に小さく掲載しました。

その後、驚いた事に、事務所には読者の方からの電話がひっきりなしにかかってきて、お便りやカードも続々と届きました。

その多くが年配の方々で、遠い昔にハワイに移民し言葉に苦労する中で、HPPを読むのが何よりの楽しみだったと言ってくださいました。106歳の方もおられました。

親子三代で楽しんでいましたとの声も複数ありました。

読者の皆様の言葉からは、その顔、佇まいが透けて見えるようで、全てが宝石のように輝いていました。

また、これはとてもハワイっぽいと思うのですが、多くの方が「お餞別」と称して、小切手を贈ってくださいました。

社長も感無量だったようで、最終号には、読者の方からの言葉をできるだけ多く掲載し、大切な大切な記念号ができました。

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