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this is paradise i feel

人生に文学があってよくて、よかった。

大学の講義を終えた方のnoteを読んだ。

いいなぁ、と思った。
このひとが「人生に文学があってよかった」と感じられてよかった。
これは希望だと思った。

わたしは大学を中退していて、そのことは何も後悔していないのだけれど
大学のことを、大学生のことを、大学生活のことを、下らないと断じているわけでもない。
どちらかといえば生きたかったし、大学に籍があったころわたしがいた環境は、わたしにとって生きられるものでなかっただけ。
もう二度と戻りたくないが、アレは当時のわたしが狭いコミュニティでの生活に対して絶望的に不向きであったというのが主因だと考えている。
(自分自身を含めた)誰の悪口もどこの悪口も書きたくないために詳細な言及が難しいが、不運なミスマッチでしかなかったというのがわたしの結論だ。成績はさておき、大学で学ぶことは面白かった。幸福であった。

冒頭で引用した記事は、わたしの感覚からはかなり遠い。

私は小説を読むとき、登場人物に感情移入をし、読み終わったときには何かしらの教訓、人生訓を得るような読み方をしがちです。卒論執筆においては、そういう読み方はあまり適切とは言えないでしょうが、無意識のことです。今回もその女性に自分を重ねて読んでいました。

『人生に文学があってよかった』

まず本の読み方が違う。わたしにこんな器用な芸当はできない。物語の筋を追いながら、登場人物の感情を読み取って、かつそれに寄り添い自身の感情も大きく動かし、糧になるものを探すなんて草臥れて仕方ないだろう。(わたしは弩級のシングルタスク派である)

私はこれまで「これが私の望むもの・生き方だ」と気づいても、すぐに飛びつけたことがありません。

いつも、「このまま進んだら周囲からの評判は?家族は何て言う?将来どうなるの?」という声の波に飲まれて、確実に大丈夫だと思える道だけ歩んできました。

あれがやりたい!これが欲しい!というとめどなくあふれる欲望に、瞬発的に従えるほど、私は自分を信頼できないし、強くないのです。

『人生に文学があってよかった』

すぐに飛びついてきた。より正確には、飛びついてから、望んでいたと気付いてきた。「ぼくはあれをやりたい」なんて求めた自覚はほとんど無い。「ぼくはこれをやる」と知って、実際その通りになった。くらいの言葉選びがしっくりくる。
あれがやりたい!これが欲しい!と、とめどなくあふれていることを認知できるほど穏やかさは無い。認識し我慢するには、わたしに(これを強さだとして、)強さも足りなかった。
ついでに述べれば「確実に大丈夫だと思える道」なんてものを選択肢に持ったことは、記憶にある限り、一度も無い。

ただまぁ、わたしのことを好きな人間はわたしが喜べば嬉しいだろうし
わたしのことを好きではない人間について気を揉むつもりもないし
とりあえずわたしは自分で楽しくなっていればいいでしょ、と考えている。
他者の思考なんて分かる訳ないので確実だとは言わないけれど、「たぶん大丈夫」だと判断したからそうやって生きている。
だから道という比喩はあまり納得感を得られない。少々無理をしてルートに例えるなら、広場を突っ切っている、あたりだろうか。

世界をアウトプットするときのデザインが、わたしと大きく違うひとだ。

美しい、と思っている。
理想があるのは、そこに至れると捉えているからに相違ないはずだ。
より良くなりたい、より良くなれる。そんな想定があって初めて、より良い自分はこうだと語れるはずだから。希望の証拠でなければ何だというのか。
きらきらと美しく愛らしく素晴らしい、光だと思う。

このひとは、夢を見る才が豊かだ。
とても素敵だ。
このひとが「人生に文学があってよかった」と感じられてよかった。




蛇足

「あえてタイトルは言いません」と書いていらっしゃるのに、コメントでタイトルを挙げてしまったのは無粋が過ぎたかしら
という反省があります。
申し訳ないことをしたかもしれない。
For fools rush in where angels fear to treadってか。
どうもこんばんは、愚者です。

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