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闘いの先

闘うということを考えている。

今年に入ってから、精神的に不安定になることを理由に触れることを避けていたSNSを始めた。
TwitterやInstagramなどである。
溢れ余る情報に晒され続け、何を受け取るべきで何を受け取らぬべきか分からなくなり、疲弊することも多い。
そんななかで、よく思うことがある。

最近、国会で色々なことが強行採決、つまり多数決によって少数派の意見を聞かずに法案可決が押し通されていることをよく聞く。
それに反対する人の「誰も殺すな」「全ての人の尊厳を守れ」という声も聞くし、「女装男を風呂に入れるな」「不法滞在外国人は犯罪者だ」という声も聞く。

一体誰のせいで私は苦しいのだろうか。
私のせいだろうか。努力が足りないのだろうか。
家族のせいなのだろうか。
生活保護を申請している人や障害をもっていて給付金を受けている人、難民の人がいるせい?
その人に暴言を吐いている人のせいだろうか。

おかしいと思う。
人はそれぞれ選びようのない現状の中で、それぞれに突きつけられる事実を、地獄のなかを生きている。
それは私のせいだろうか。あなたのせいだろうか。あの人のせいだろうか。

余裕がない。
あなたのこともわたしのことも考える余裕がなくて、だから私より脆弱な立場であるような、攻撃しても攻撃を返せないような人に、矛先を向ける。
人は風上に対して意見をすることを避ける。
風下に対して石を投げる。

学校という場所は、尊厳を傷つけられる場所だと思う。
学校にいる時、私はずっと顔を誰かに踏みつけられているような気持ちだった気がする。
圧迫感があり、恐怖や、痛みや、苦しみが私の余裕をおおきく失くしていた。
私に暴言を吐いたあの人と、今も話すのが怖い。
私は対話ができなかった。
その対話ができなかった私は、踏まれたまま気絶して、気づいたら家のベッドで布団にくるまっていた。
私はいつも、また繰り返すのではないか、と恐れている気がする。
次気絶したら、私を家に運んでくれる人はいるのだろうか。
私に家はあるのだろうか。

私はあの人を悪者だと思っていない。
私は伝えたかった。
痛いよ、踏まないで、足を退けて、と。
どうすればあの時足は退いただろうか。

怒りを表明することは時に必要だと思う。
怒りを表明しないことは無言の肯定とみなされたり、いくらでも尊厳を踏んでいいのだと思われたりすることがある。
だけど、怒りは受けとりにくい。
怒られたり、叱られたり、責められたりすると、言葉は相手に入ってこなくなる。

今も記憶は薄くて、色づく場所も疎らだが、当時私は教室という空間や、そこで行われるマウンティングや差別に怯えていた。
怖くて怒りや悲しみを伝えられなかった。
私は闘うことができなかったし、冷静に話すこともできなかった。
私は怖い。殺されることが。
私の存在を否定されることが。

反対したら差別は止み、怒ったら行動は止まるのだろうか。
人の尊厳は蔑まれず、相互承認が生まれるのだろうか。
闘えば生きやすくなるのだろうか。
闘いは、始まったら、いつ終わるのだろう。
デモをして、大声をあげて、罵ったり叱責したりして、それで、私の苦しみは手放されるのだろうか。
あなたは楽になるのだろうか。

傷ついていたのではないだろうかと、思うことがある。
あの人は。
自分の家庭の中で存在する関係性を学校でも再生産していたのではないだろうか。
傷つけられていたのではないだろうか、怯えていたのではないだろうか。
私がまた、そうであるように。


自分と向き合うということや、自分に意識を向けるということが、視野を狭くし、自分の世界に籠ることだけの道だと私は思っていない。

私は既存のレールから降りて、自分の体が重力をとても重く感じるようになってから、自分のことについて考えることが多くなった。

掘り、潜り、自分をみると、私は私ではないということがほろほろとみえてきた。
私の中にあの人がいた。
私は他者だった。
幾人もの他者がいて、わたしは固体ではなく溶体のようで、空気のように分散もしていく。
私のことを知ることは他者を知ることであった。
他者について考えることは私について考えることだった。
だから、自分を掘りさげていくことは、人に繋がる方法のひとつだと思う。
あなたの中に私はいるし、私のなかにはあなたがいる。
それが、相手を想像するということだと思っている。

闘いは終わるのだろうか。
どちらかがねじ伏せたら終わるのだろうか。
なんの闘いも、闘い始めたら、闘い続けるほかない気がする。
だって、どこも終わっていない。
闘いはただ続く。
それはしあわせなことだろうか。


私が私を離してしまったのは、踏まれている時のこと。
私はあの時、私の手を離してはいけなかった。
踏まれている私の髪を撫ぜて、「あなたの話は私が聞いているよ」「ひとりにしないよ」と、言えば、私の尊厳は深く抉られるのは避けられたのではないだろうか。
記憶は残ったのではないだろうか。
感覚を覚えていられたのではないだろうか。

私が手放した。私の命を大切だと言うことを。
そうせざるを得なかった。

沈黙は肯定ではない。
永井玲衣さんが書いていた。
横たわりながらでも、抵抗はできると。

闘わない。
だけど受け入れない。
抉ることも、踏みつけることも、受け入れない。
私は抵抗する。
私は私を離さない。
生きている時点で私は生きていていいのだから。
あなたがそうであるように。

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