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体、恥ずかしくないよ

2022年8月28日の文


幼い頃、両親によく「恥ずかしいよ」と言われていた。
僕は裸になるのが好きだった。
幼稚園から帰ってきたら、まず玄関でほとんどの服を脱ぎ、下着になって走っていた。
なにかの音楽を聴きながら、食後のハイになったテンションで、パンツを履かずに踊っていた。
薄くて透けた、白いワンピースを着ていたと思う。
僕はあの服が好きだった。

その度に、「恥ずかしいよ」と言われた。
おしりが出ていて恥ずかしい。
女の子なのに、と。

初めて月経がきた時、母からそれを伝え聞いた父が「赤飯を炊こう」と言ったらしく、それを母から「嫌だよね、そんなの。」と言われた。
何が嫌なのかよくわからなかった。
母は自分も初めて月経がきた時赤飯だなんだと言われてとても嫌だったのだと言い、また「恥ずかしいよね」と言った。

小学校の時の保健の授業で、月経を習った時、男女で教室を分かれるようにと言われ、僕は女子の方へ行った。
白衣を着た先生がナプキンの付け方や種類を話しながら、月経の仕組みについて臓器の断面図を見せながら説明していた。
確か男性器の説明もあったと思うけど、ほとんど覚えていない。
何を言っているのかほとんどわからなかった。
クラスに戻ってきてからの、男の子と女の子のそわそわした雰囲気がとても気持ちが悪かった。

僕は月経がくるのが早かった。
クラスで何故か僕が月経がきていると知っていた女の子に、月経の対処の仕方を教えてと言われた。
恥ずかしい話をするように、小声で、教室の後ろの隅で、自分も月経がきたのだと話すその子は不安そうに、弱みを明け渡すような顔をしていた。
その時僕は何を言ったのか、もう覚えていない。

月経のなにが恥ずかしいのか、なにもわからなかった。
なぜ赤飯を炊くのか、その赤飯を炊かれることがなんで嫌なのか、僕には何もわからなかった。
でも、いつの間にか、僕は家に帰ってきて服を脱がなくなり、下着を身につけず家の中で過ごさなくなった。
恥ずかしい、という感覚を、周りに教えこまれるように体に染み込ませていって、僕も女の子と生理の話をする時「恥ずかしいよね」という顔をするようになった。
両親は僕が裸にならないことを成長として喜んでいた。
だから僕は、服を着るようになった。

ある時、学校でトイレに行って、ちょろちょろと流れる自分の尿の音がとても恥ずかしいものだと感じたことがあった。
それから僕は、音姫がある理由を知った。
そういえば、よく男の子が便を出したのか尿を出したのか、トイレに行った時間や外まで聞こえる音で決めて、人をからかっていた。
あれを見て僕は、「恥ずかしい」と思った。
音がするのは、恥ずかしいんだと。

それから、プールの授業で体毛の有無をからかっている人を見たり、友だちが毛が生えていることを気にするようになって、僕は毛を剃るようになった。

どんどんどんどんどんどん、「恥ずかしいもの」は増えた。
なにを知らないのが、何を持っていないのが、こういう体の特徴があることが、恥ずかしい、と。
気に止めていなかったことを気にさせられるようになった。
人に生理の話をすること、ナプキンを変える音、トイレで用を足す音、体に毛が生えていること、ニキビがあること、身長が低いこと、YouTuberを知らないこと、テストの点数が低いこと、足が遅いこと、体重が誰かより重いこと、バスケが同級生より下手なこと、可愛くないこと。

生理は、くるものだし、体毛は、生えるものだ。
用を足したら音はするし、ナプキンを変えるのは自分の体をちゃんと扱ってるだけ。
ニキビは体が汚いからできるのではないし、身長は低かろうが高かろうがどっちだっていい。
足だってどっちでも、体重だって、バスケができようができなかろうがどっちだっていい。
判断される可愛いの幅にはまろうとすることは、苦しい。
なんでこんな小さくて狭い場所で、どこもかしこも苦しんでいるの。

なんで、恥ずかしい、と言う。
なんで、その幅から外れたら「引く」。
それはなんのマウント?
何が怖い?
何に当てはまろうとしているの?
それをしていて、なにがいいの?

常に増え続ける「恥ずかしい」こと。
美容系YouTuberの話す毎日の美容の手順。
女子力アップたとか、異性ウケがいいと書かれた雑誌。
これをやれば東大合格と書かれたサムネイル。

どうでもいい、どうでもいい、どうだっていい。
そんなの、どうだってよすぎることだ。
みんなそのまま生きていることに比べたら、どうだっていいことだ。
そんな僅かなことを知っていようが、知ってなかろうが。
知っていることとそれを理解していることは全く違うことだし、できるできないだって、その場のそのルールに基づいた中で求められることができたかできなかったのことであって、そんなものが、そんなものが人間の価値を左右していると思うなんて、あまりに悲しい。


何度向こうとしても、何度話そうとしても、絡まった蔦は、水のように見える蜂蜜みたいなどろどろでべたべたした溶液は、離してくれなかった。
こんな生き方しか提示されないような教育なんて社会なんてその社会で生きてる人間なんてクソ喰らえだと思っても、ずっと僕はクソ喰らえなままだった。

ほんとクソ喰らえだよ。
幸せになりたい?って聞かれて答えられない自分も、それに応えて乗り越えようとする僕の手を引っ張ってる小学生の頃の親友もクソ喰らえだ。
みんなみんな。
不本意な目をしてる。
こうじゃないまま、生きていけるならそうしたい、って伝えてくる。
だから僕にそういう目を向けている。
お前だって無理なんだよ、って言おうとする。
やさしいように見える言葉が吐瀉物を染み込ませたコットンみたいで、その言葉を受け取ることはコットンを喉奥まで詰め込まれるみたいに感じる。

クソくらえだ、くそくらえなんだよ。
今の俺も、君も、あの人も。
ここの場所も、この匂いも、この感覚も。


だから蜂蜜みたいな溶液がついてても、僕はここから出るよ。
簡単に乾かなくても、とれなくても、もう出るよ。
もういい、完全に見えようが不完全に見えようが、安定とか不安定とか、将来像とかなりたいものとか夢とか職業とか実現可能性とか親孝行とか家庭がとか子供がとか老後がとか自立してるとか生きていけるとか生きていけないとか良いとか悪いとか、もういいよ。


いいよ。


あなたの体も。
僕の体も。
恥ずかしくない。

それで僕はいいから。

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