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「書くこと」に疑問を持っていた私が古典に救われた話。

「もうずっと長い間、書き続けていらっしゃいますね」

二月のはじめ、ある企画で全く知らない方に文章を読んでいただく機会があった。その時、私の文章を読んだその方が、そう言った。

言った、と書いてみたが、実際はツイッターのDMでのやり取りだった。スマホの液晶に映った文字を見ながら、そうか、私は「書いていた」のかと、改めて己の身を見つけたような心地がした。

たしかに、もうずっと長い間何かを書いているような気がする。だけれどもそれは、人に見せるような文章ではなく、文章というよりも、体の芯からの雄叫びみたいなものだった。そういうものは、大概、ノートの隅やテストの問題用紙の裏にびっしりと書かれて、今ではもう、残っていない。

書くことに疑問を持っていた時期がある。世間には文章が溢れ、私達は日々信じられない量の言葉を浴びている。新聞やウェブニュース、SNSなどの比較的読むことを意識しているものから、テレビのテロップや広告の大きな文字、トイレの注意書きのようにどうしたって目に映ってしまうものまで。

書くことで真に人に感情が伝わるのか、十代の頃そんなことを考えていた。だれも自分の感情などわかってくれはしないし、しかしそう言って孤独を決め込み、押し黙るほどの強さを、私は持っていなかった。

理解されない、理解されたい、理解なんてできるはずがない、理解されたくなんてない。

思春期だと言い切ってしまえばあっけなく、しかし心を蝕むには十分な孤独。

そしてこの孤独を救ってくれたのは、千年前の孤独だった。

そういう話を、したいと思います。

  ○

高校受験を、私はしなかった。
そこには、色々な理由がある。対外的には『病気療養』だけれども、どちらかというと『不登校』が正しい。中学一年生の時に発覚した私の皮膚がんは、思春期の女の子の心を歪めて蝕むには十分な重さを持っていた。

中学三年生の夏休み明けから、どうしても学校に行けなくなった。私がいわゆる「普通」のレールから外れたとすれば、おそらく最初はこの夏休み明けだ。

癌の経過観察は五年が基本だとされている。私は中学一年生の時に全身麻酔の大掛かりな手術をし、五年後の生存率は五割だと言われていた。
転移しやすいガンであること、リンパ節に腫瘍があり全身転移の可能性が高いことなどが、その理由だった。

中学三年生の夏休み明けとなると、いよいよ高校受験に本腰を入れる頃合い。学友たちは皆、自分の将来像を考えている。考えるように教員からも言われていたし、それはきっと正しいことなのだろう。五年後どうなっていたいか、十年後なにをしていたいか。そのために今、何を選択するのか。

だけれども、数年後に生きているか分からない私にとって、それを考えることは苦痛でしかなかった。

いっそ、『死んでいます』となれば気持ちが落ち着いたのだろうか、なんて、どうしようもないことを考えてしまう。私たちは明日交通事故で死ぬかもしれない。そういう意味でいえば、五年後の生存が保証されていないという条件は、誰にだって当てはまるはずだ。五年後どころか、明日すら、実は皆等しく不確定である。それを頭の中で理解していながら、それでも学友と同じように前を向いて勉学に励むことが、どうしてもできなかった。

同級生の希望にあふれる目を見るのが嫌で、学校に行かなくなった。

  〇

「首に腫瘍がありますね……手術して検査してみないと何とも言えませんが、再発の可能性があります」

主治医の先生がそうおっしゃったのは、私が中学三年生の冬のことだ。
半年間の引きこもり生活で、すっかり母親との関係は悪くなっていた。日々『高校受験はどうするの』『甘えないで学校行きなさい』『なんでみんなが出来ることが出来ないの?』なんて言葉を浴び続ければ、まあそうなるのは当然といえば当然。笑っちゃうくらい、よくある不登校のこじれだった。

「手術をおすすめします。でも、手術するってなると、ちょうど受験のシーズンに被っちゃうなあ……どうします?」
「いいです、手術してください」

おかしなことだけれど、この再発疑いは私にとって渡りに船だった。病気であれば、手術を前にしているということであれば、鋭い言葉のナイフを浴びることは減る。「ああ、病気、たいへんなのね」なんて訳知り顔の大人の言葉に、すこし殊勝な顔をして俯いているだけで済む。
私は賢しらな子供だったので、大人なんてみんな馬鹿だなと思っていた。大人になって、そうじゃない大人もいっぱいいることを知った。一方で、やっぱり病人にたいして分かった風なことを言う馬鹿な大人もいっぱいいるので、中学生の私の賢しらはある種正しいとも思うのだ。

本当に大変なのは病気じゃなくて、病気に曲げられた当人の人生や周囲の視線だってことを、誰も理解はしてくれなかった。


  〇

あれは、ちょうど九年前の2011年春。3月11日のあの日あの時間に、私は手術室にいた。執刀中の、出来事であった。

手術室が揺れているのが、部分麻酔で横になっていた私にもわかった。執刀をしてくださっていた若い先生が、ひどくうろたえていた。横になっていた私よりも、看護師さんや先生方の方が強く揺れを感じていたに違いない。それでも、看護師さんは私の手を強く握って「大丈夫、大丈夫ですよ」と行ってくれた。その温かさと手の強さは、きっとずっと忘れない。

それから、私の首から取り出された腫瘍は、すぐにスライスされて検査にかけられた。まだ余震が続く中、「よかった、どうやら再発ではなさそうだよ」と先生が言った。

どんな顔をすればいいのか分からなくて、「よかったです」って、とりあえず笑っておいた。再発しててほしかったわけではない。だけれども、将来のことを考えなくていい、というのは本当に気が楽なのだ。再発していないとなれば、また、すぐに立ち上がり歩くことを求められるに違いない。励ましの顔をした鋭利な言葉を浴び、それに作り笑いで答えることは、心底億劫だ。生きることは、何一つ希望ではなかった。だから対外的な死ぬ予定がなくなってしまって、どこか残念に思っていた。

まだ自分の人生は、続くのだな。そのぼんやりとした絶望感を、手術台の上で享受していた。

でも、手術室から出てニュースを見ると、世界は一変していた。

  〇

病棟のロビーに、大きなテレビがある。もちろん、各病室にもテレビはあるから、部屋で見たっていい。だけれどその日は、入院患者の多くが身を寄せ合うようにしてロビーのテレビを静かに見つめていた。

東北の方の、大きな地震。そして津波。

私が入院していた静岡のがんセンターからは、海が見えた。
あの海面が、北の方で多くの人を飲み込んだという。

再発ではないと分かって、両親は心底ほっとしていたようだった。実家の祖父母にも連絡を入れて、家族や親戚みんなから「よかったね」という言葉をもらった。

だけど、今日どこかで多くの人が、とんでもなく多くの人が、なんの準備も前触れもなく命を落としたと思うと、やっぱりどういう表情をすればいいのかわからなかった。

私は再発していたって良いとさえ思っていたのに、自分の生に期限があったほうが生きやすいとさえ思っていたのに。

あの夜。病室の北側の窓から、まだ冷たい春の闇を見つめながら、繰り返されるニュースを聞いていたあの夜。

あの夜は、いつまでも眠れなかった。

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一年遅れて普通科の高校に入学できたのは、中学校の先生方のおかげとしか言いようがない。

16歳の春、私はめでたく高校生になった。少し遠くの、誰も知り合いのいない私立高校を受験した。定時制高校や通信高校ではなく、普通科へ入学したのは、母の強い希望だった。

どうやら、神様は私に死神を差し向けるのをやめたらしい。
そう思い始めたころに、肺に腫瘍の影が見つかった。

本当にちいさな、ちいさな影。

「もう五年、経過観察をしましょう。大きくなることがあれば、再発かもしれません。でも、いまのサイズでは摘出して検査もできないので、経過を見るしかないです」

そうおっしゃった先生は、それから、と言葉を続けた。

「首のところが、どうも腫れているみたい。ぽちゃっとして、ちょっと怪しい腫れ方をしてます。地元の病院で、一度検査を受けてみて」

その首の腫れがバセドウ氏病だと分かったのは、ゴールデンウイークが明けたころ。もうすぐ17歳になろうとする初夏のことだった。

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神様は私に死神を差し向けはしなかったけれど、私は病魔を飼っているのかもしれないな。

神様がいるのかどうか、私は知らないし、興味もないけどさ。

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面白くもない私の半生をぐだぐだと書き連ねたのは、私がどういった背景で孤独を煮詰めるようになってしまったか、話しておきたかったから。

両親は私の病とは向き合ってくれたけれど、私の心とは向き合ってくれなかった。死を意識すること、それでもなお生き続けてしまうこと。続いてく人生への絶望感と、来るであろう明日が来なかった人たちへの言葉に出来ない罪悪感。

普通になって次へ進めると思った瞬間に、足元に空いていた大きな穴のこと。底の見えない、身体の不自由。ホルモンバランスの乱れによる倦怠感、苛立ち、コントロールの出来ない心拍数と感情。そして、それらすべてを『我儘』として理解してもらうことのない、日常。

高校生活に楽しいことがなかったと言えば、嘘になる。だけれども、続かない集中力と、座っているだけで息が上がる動悸。無理解の視線に晒されるストレス。そういったものは、確実に十代の私の身体を蝕んでいた。

学校に行きたくない、行けるような体調じゃなくても、朝たたき起こされて、怠けるなと怒鳴られる。登校すると健康で疲れ知らずの学友たちがいる。みんなが出来る課題が、どうしたってできない。みるみる成績は落ちて、休みがちのために授業についていけない。

その、劣等感。

居場所がなかった。この世のどこにも、私の居場所なんてなかった。

ただ、白い紙の上を除いて。

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白い裏紙が一枚あれば、息ができる。

シャーペンの先が何度折れても、強くグリップを握りしめて、血のような字を書き連ねていた。授業プリントの裏や、テスト用紙の裏。人に決して見られない場所に、ただ、ひたすら。

誰に読まれるわけでもない、誰に理解されるわけでもない言葉たち。

とうの昔に、理解してもらうことを諦めてしまっていた。いくら言葉を尽くしても、私の母は私という存在を理解してくれなかったから。

人に話すことはできない孤独を、それでも頭の中じゃなくて紙にぶつけていた。

なんだか、おかしいよね。
「書く」という行為は、同時に「読む」ことを意味する。読まれたくなければ、書かなければいいのだ。理解してほしい、だけれども、理解されない。どうせ誰も分かってくれない。そんなことを思いながら、それでも毎日、気が付けば泣きながら文字を書きなぐっていた。

書かなければ、生きていけなかった。

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人が真に他人を理解することって出来るのかな。
『今』という瞬間が目に見えないように、理解したという気持ちも、そう思った瞬間に他人の気持ちから自分の気持ちになってしまう。

人が真に他人を理解することができないならば、分かってほしいと思うこと自体、酷く愚かなことじゃないだろうか。

そう思いながら、それでもなお、私たちはどうして文章を綴ってしまうんだろう。

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早退や遅刻を繰り返し、薬を飲みながら、それでもなんとか高校を卒業し大学へと進学できたのも、やはり先生方のおかげである。バセドウ氏病の悪化によって希望するような大学受験は叶わなかったが、専門だけは望んでいた文学を選んだ。肺の影はいつまでも変わらず、大きくも小さくもなりはしなかった。

『伊勢物語』に出会ったのは、大学二年生になる春休みのこと。

春から始まる専門の演習の題材だとシラバスに記載されており、予習のつもりで新潮社の日本古典集成を図書館で借りた。この小さな本を春休みの間、どこへ行くにも携帯していた。

『伊勢物語』。
「むかし、男」ただそう呼ばれる男の一代記。

まだ若かりし恋から始まり、二条の后との失恋、東下り、伊勢斎宮との恋、そして最期の時までを記した歌物語。昔男とぼかされた主語は在原業平を模していると言われる。そんな男の人生が、一二〇余段に及んで描かれている。

その、最後。辞世の句の、ひとつ前。

こんな段がある。

むかし、男、いかなりけることを思ひけるをりにかよめる
  思ふこと言はでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ
                 (流布(定家)本・124段)

むかし、男がいた。どんなことを思った折だろうか、こう詠んだ。
  自分の思ったことを言葉にするのはやめてしまおう。私と同じ人はいない。言ったところで、誰も分かってくれなどしないのだから。

すっと、目の前の霧が晴れるような思いがした。
当時下宿していた寮から歩いて15分のイオンモール。狭くていつも薄暗い寮から逃げるように向かったコメダ。赤いソファに身を預け、カフェオレを飲みながらめくったページ。

そこには、私がいた。

  〇

『伊勢物語』は不思議な話だ。少なくとも、私はそう思っている。
この物語は「むかし、男ありけり」で始まり、その男は在原業平ということになっている。なっているけれど、『伊勢物語』に出てくる昔男が本当に全部業平のことかというと、これは全く違う。

所々で業平の歌を取っており、また同時代に生きた二条の后(藤原高子)や伊勢斎宮との恋、惟喬親王との交友といった実存の名前が挙げられている点において、業平という実像を描くことが出来る。しかし一方で、「昔男」として主語をぼかし、「女」と書いて実像をぼかす。到底業平が経験することの無い田舎の幼馴染との恋を描く筒井筒や、地方での夫婦の再開を描く梓弓など、業平像からかけ離れた「昔男」が伊勢物語内では随所に登場する。

この独特な形式が、『古今和歌集』成立前後の10世紀初頭にすでに存在していたというのは、とてつもなく不思議で興味深い。

私たちが古典を読むとき、教科書や本屋さんに並んだ本は、当然印刷された文字だ。だけれども、平安時代の物語が生まれた最初から活字だったかといえば、もちろんそんなことはない。筆で紙に書かれ、それをまた書き写す。そういう形で物語は広まり、そして残っていった。

例えば古本屋で本を買ったとする。その物語の最後に、斜線が引かれて、ボールペンで結末が書き換えられていたとしたら、どう思うだろう? 当然、それは「本当の物語の形」でないとわかる。前の持ち主が、カムパネルラが死ぬのが嫌で書き換えたに違いない、迷惑な奴だ。それで終わりだ。

だけれども、平安時代は違う。
物語が広まるということは、手で書き写すということだった。それはつまり、筆者と読者の垣根が限りなく低くなるということ。

特に「むかし、男ありけり」という一定の文章で始まる型を持つ伊勢物語は、そういった後人による増補や注記が本文内に多く紛れ込んでいるとされる。

この物語には、書き加えたくなる魔力が存在しているのだと、私は思う。

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『思ふこと言はでぞただにやみぬべき我と等しき人しなければ』

この歌を本当はだれが詠んだのか。正直なところ、分からない。

伊勢物語には209首の歌が含まれているが、そのうち業平実作と思しき歌は35首と限られている。それ以外の歌は、『万葉集』『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』そして『古今六帖』などに採録されている歌を元に構成されている。いずれも10世紀~11世紀初頭に編まれた歌集であり、当時流布していた著名な歌を物語へと仕立てているのだ。

一方、『思ふこと』の歌は『新勅撰和歌集』に採録されている。『新勅撰和歌集』は13世紀、貴族から武士へと政治中枢が移り変わるころの成立で、この歌集が『思ふこと』の歌を業平詠としたことは、伊勢物語を根拠としていると考えるべきだろう。

ならば、この歌は結局誰の歌なのだろう。
だれがこの位置に置いたのだろう。

様々な恋を経験し、一二〇余段にも及ぶ人生の悩みを、苦しみを、別れを。それら全てを語りつくしてきたこの物語の最後の最後で、誰が『言はでぞただにやみぬべき』なんて書いたのだろう。

なんだか、裏切られたみたいだ。
だけれども、これ以上ないってくらい、共感してしまった。

本当におかしなことだけれど、『我とひとしき人しなければ』に、自分との等しさを感じてしまったんだ。

孤独が孤独を救うなんてことが、あるんだな。
理解されないことが、理解されないことを救うんだな。

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私たちは、肉体と言う檻に、脳みそという孤独に、いつだって縛られている。どれだけ言葉を尽くしても、貴方に伝わるころには齟齬が生まれて、誤差が生じる。

人に、真に理解される日なんて来るのだろうか。
人を、真に理解できる日なんて来るのだろうか。

きっと、来ないね。
千年前に、この章段を書いた誰かも、そう思っていたに違いない。

それでも私たちは繰り返し言葉を紡いでしまう。

その矛盾を、どう考えればいいのか、ずっと分からなかった。

だけど、千年も前に、同じ矛盾を抱えた人がいた。
人との出会い、思慕、友愛、未練、執着、後悔。あらゆる人生の物語を語りつくした最後に、孤独の歌を置いた人がいる。それを読み、享受してきた人々がいる。

千年、積み重なったたくさんの孤独が、今の私の孤独に寄り添っている。

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私が古典文学を、それも平安和歌を学びたいと思ったのは、この千年前の孤独との邂逅が理由だ。

あまりにも衝撃で、あまりにも鮮烈だった。

それからずっと、魔法瓶みたいなみそひともじに閉じ込められた感情に魅せられている。

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私の夢を、聞いてほしい。
すこし夢見がちで、ちょっと照れくさくて、それで人には言えなかったんだけれど。

古典を、和歌を、もっと生活の身近に感じられるような、そんな取り組みをしたいのだ。

遥か昔から残ってきた言葉たちの中には、きっと、貴方に向けた言葉もある。でも、古典そのものに直接触れるのは、なかなかハードルが高いだろうから。それなら私は、その水先案内人になりたい。

まだまだ勉強中の身で、何ができるかわからないけれど。それでも、私の小さな小さな人生の窓から見た景色を、千年前の瑞々しい人の息吹を、少しでも誰かに届けられたら、これ以上嬉しいことなんてないなって思う。

本当にそう、思うんだ。

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書くことで真に人に伝わるのか、ずっとそんなことを考えていた半生だった。だから、私は確かに長い間書いていたのだけれど、それを「書く」の数にしていいのか分からなかった。

それでも、こうしてnoteというサービスで、自分の言葉で自分の思いを綴り、発信するようになった。
『伊勢物語』がそうしたように。多くの歌人が、自分の身を取るに足らぬとしながらも、それでも歌い、書くことをやめられなかったように。私の身も、取るに足らぬが、それでも書くことをやめられないのだ。

貴方も、そうだろう。

この孤独の矛盾と、ずっと生きていく。

おそらく、それが私にとっての、生きるということ。


【補】
本記事で取り上げた『伊勢物語』本文は全て『日本古典文学大系』(岩波、1957、大津有一・築島裕校註)による。本来であれば『新編日本古典文学全集』(小学館)によるべきであるが、コロナウィルスの影響下における手近な公共図書館の閉鎖により、座右に存した本書に寄ったことを断っておく。また、章段数和歌数などは全て流布本(定家本)によった。

読みやすさを考慮したうえで、専門的すぎると判断した事柄に関してはある程度通説を取ることとした。正確性を欠く文章であることを、お詫び申し上げる。

【補2】
noteでは古典に関するエッセイや、日々の事のエッセイなんかを書いています。
それから、和歌をモチーフにしたアクセサリー作りも行っています。まだまだ未熟ですが、近いうちに販売まで踏み切れたらと思っております。

アクセサリーに関してはこちらのアカウント

こんなものを作っています。

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