見出し画像

ヘルシンキの老婆、少女の面影

ヘルシンキの小さな路面電車を降りた先には、異様な光景が広がっていた。

鼻息まで白く、指先がかじかむ寒空の下を談笑しながら闊歩する水着の老婆たち。大粒の汗を全身に光らせ、もうもうと真っ白い煙をまとった彼女らは、たった今100度のサウナ室から解放され、その足でバルト海へとジャンプする。まるで少女たちのプール教室のように和気あいあいと寒中水泳を楽しむマダムたちは、その後ピンク色に肌を染めて陸に舞い戻り「ロンケロ」なる愛称で呼ばれる、ジンをグレープフルーツソーダで割った、いわばフィンランド版の酎ハイをあおりながら幸せそうな笑顔を浮かべていた。自分の喉がごくりと鳴るのがわかって、私は足早にその人気サウナ施設の受付へと急ぐ。

日本の空前のサウナブームにまんまと影響された私は、近所の小さな銭湯に通うサウナ愛好家のひとりである。経営者の界隈でもサウナはちょっとした「嗜み」と化しているところがあるが、本場フィンランドまで行ってサウナに入ったとなれば、私もブームに踊らされただけの単なるニワカの域を出るところまでは来ていると思うし、実際サウナ好きの日本人に「フィンランドでサウナに入った」と自慢すれば、ちょっと一目置かれたりする。

私のよく行く銭湯は、いつも都会の喧騒から逃げるように集まった現役世代でごった返していた。特に男湯のサウナは必ずといっていいほどロビーでの待ち時間が発生する。疲れを癒しに行ってるっていうのに、そんなに待ってまで入りたいもんかね。と思うかもしれないが、それでも彼らは待つ。自分の「ととのう」瞬間(こう書いて「とき」と読ませたいほどドラマチックな瞬間)を待つのだ。

「ととのう」というのはサウナ用語で、サウナ室と水風呂に入った後に外気浴をすることで訪れる「恍惚のリラックス状態」のことだが、友人に言われて半信半疑で「ととのって」みた私が思うに、オジサンたちがわざわざ仕事帰りに順番待ちをするだけの破壊力を感じざるを得ない、そんなシロモノであった。

高温多湿なサウナ室でおのれをゆっくり蒸し上げ、その熱をすべて溶かすように水風呂を楽しむ。冷たく感じるのはほんの5秒で、いくらでも入っていたくなるけれど、1分ほどで上がってベンチに体重を預けるのだ。できればツンと寒い冬の屋外がいい。季節の植物の香りを運ぶ風を楽しみながら目を閉じると、「あれ。世田谷の夜ってこんな音だっけ」と五感も敏感になる。やがてぽかぽかとした幸福感に包まれ、恍惚のリラックス状態、つまり「ととのい」がやってくるのだ。

「ととのった」あとは、なんだか優しくなれる。さっきはポケットに手を入れながら身を縮めてふてぶてしく銭湯にやって来たオジサンも、ちょっぴり夜空を仰ぐようにゆるりとした足取りで銭湯の暖簾をわけて出て行った。そういうパワーがサウナにはある。

詰みあげられた仕事にも、一筋縄ではいかない人間関係にも、漠然とした将来の不安にも、嘘かと思うほどに終わりの見えない戦争にも、私は日々なるべく真剣に向き合いながら生きている。できればそういう人間でありたいと思っている。しかしサウナに入ると、「今はまぁ、どーでもいいか」と思えてしまう。むしろそのリセットを越えた先にだけ、ごちゃごちゃに書き殴られた頭の中のホワイトボードを拭いた先にだけ、また新しいことを書き始められる隙間を作れるんだから良いじゃないか、そんなふうに自己肯定に浸りながら。

フィンランドには540万人の人口に対し、300万ものサウナがあるという。この国が7年間連続で幸福度ランキング1位に輝く所以はもちろん沢山あるが、そのひとつは、サウナという物理的なリラックスとリセットのスピリットが、幼少期から生活のすぐ隣にあるからなのかもしれない。

ヘルシンキで見たホッカホカの幸せそうな老婆たちの笑顔に少女の面影を感じたことを思い出しながら、そんなことを考えている。

この記事が参加している募集

#一度は行きたいあの場所

52,829件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?