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「俺(私)に配慮しろ」と言う弱者たち

 はじめに。私は「弱者」という言葉が嫌いだ。
 第三者が使うと見下しているようなニュアンスが漂うし、当事者が使うと悲壮感がありながらも何処か傲慢なニュアンスが漂う。誰もこの言葉を適切に使うことはできない。つまり、この言葉自体が良くないのである。
 ちょうどリーマンショックのあった頃に「勝ち組」「負け組」という嫌味な言葉が流行ったが、それと似た嫌悪感を覚える。一方で上手な言い換えも見当たらないから非常にもどかしく思う。
 そのことを前置きした上で、この記事中では弱者という言葉をそのまま使わせて頂きます。ご理解願いたく思います。
 
 先週くらいから、ある車椅子ユーザーがネット上で大炎上している。その事の詳細は省くが、要するに障害者が「配慮してもらう権利」を主張することに関して巷では賛否両論があるようだ。私が今回、このテーマを取り上げるに至った理由の一つでもある。

 率直に言えば、私も社会的には弱者の部類に入る。
 最終学歴は大学中退のち短大卒業。精神障害等級2級。正社員歴なし。身体障害こそないが、自分自身がそうなったのは自業自得な一面があることを自覚しているから「俺に配慮しろ」とは言わない。まあ、就職しようにも書類選考で落とされて面接まで漕ぎ着けないから、そう訴える機会もない(苦笑)。

 数年前、私は不安神経症のような体調不良に陥って、電車に乗るのが怖いと感じる時期があった。特に人の多い電車に乗ると、何かあった時に逃げられない不安から呼吸困難と動悸がしてきて、具合が悪くなるのである。
 ある日、都心の電車に乗っている時、電車が急停車した。いつ走り出せるか分からない不安で、私はその場に座り込んでしまった。だが、座っている人に「席を譲ってください」とは言わなかった。そういうことが言えない性格というのもある。結局、電車はすぐに走り出したので、私は次の駅で降りて深呼吸した。すぐに発作は収まって無事に帰宅した。

 これは私の持論ではなく、世間の一般論として「権利を主張する前に義務を果たせ」と言う。今の私の頭の中にはこの言葉がある。そう、私は「俺は全然義務を果たせていない。社会貢献もできていない。したがって権利は主張できない」という立場を取っている。
 社会的には弱者かもしれないが、冒頭に述べたように弱者という言葉は嫌い。「俺(私)は弱者だ。配慮しろ」という立場を取っている輩も嫌いだ。例の大炎上している車椅子ユーザーは、(少なくとも私には)そういうタイプに見えた。その意味でも大炎上した、と理由付けすることも可能だ。

 「日本は自己責任論が強すぎる。もっと他人のせいにして生きても良いじゃないか」という意見がある。確かに自己責任論が強い一面があることは認めるし、それに対する反論があることも分かる。分かるが、同じ日本で生きている以上は自己責任論で生きている方が叩かれないし、周囲にも応援される。その方が皮肉にも自分自身も断然楽というオチだ。
 
 今はそのように言っている私だが、以前には弱者の権利を主張して・・・要は「俺に配慮しろ」とキーキー喚いていた時期があった。無論、反発は多かった。相当に叩かれたものだ。なにより自己中心的なっている自分がいることに気づいて、忸怩たる思いをした。それ以降は弱者の権利を主張することをやめた。以前に比べて大人しくなったとよく言われる。先にも述べたが、権利はなるべく主張しない方が叩かれないし周囲にも応援してもらえる。

 「俺(私)に配慮しろ」というのは、開き直っているとも解釈できる言動あるいは行動である。アメリカなどの海外では通用しても日本では通用しない。開き直っているうちは人生が好転することはない。これは私の経験談でもある。