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なぜ私は文章を書くようになったのか ~才能は「苦痛」によって開花する~

 正直に言って、この記事は叩かれるのではないかと思う。中傷の餌になると思う。だが、私は天才ではないので、そろそろ書くネタ(アイデア)に困っているのだ。この度は、ご勘弁願いたく思う。

 さて、「なぜ私は文章を書くようになったのか」という話である。
 私は天才ではない、と謙遜したが、その辺の人に比べれば文章を上手に書けるという自負があって、実際に文章を褒められたことは実は一度や二度ではない。
 
 なぜ私は文章を書くようになったのか。それも生真面目に。
 病気で辛い思いをしていたのだ。その辛い思いを、一人でも多くの人に伝えたかった。知って欲しかった。それ以外に理由はなかった。

 無論、初っ端から今のようにスラスラと文章が書けるはずもなく、むしろ私は子供時代から作文は苦手なほうだった。読書感想文なんか本当に大嫌いで下手だった。
 今の私に(多少は)文章を書く才能があるとして、それは持って生まれた才能ではなく「叩き上げ」の能力なのである。
 私は2019年から本格的に文章(ブログ)を書きはじめた。そして徐々に文章が上達していったのを覚えている。半年くらいで閉鎖してしまった短命なブログだったが、最終的には80人以上の固定読者がついた。

 うぬぼれもここまで来ると病気と思われてしまうが、うぬぼれとは人生を究極に楽しいものにする快楽主義で、周囲を不愉快にさせるほどの高頻度でなければ、そこまで悪いものとは私は思わない。
 大の大人の男が「俺はダメな人間。なんの才能もない」と泣き言を零したところで、そのネガティブキャンペーンに共感してくれるのはマルチの勧誘を目的にしている悪女くらいのもので、「俺には才能がある。稀に天才なのかと思ってしまうこともあるよ。その理由を語ろうか」と潔く言い放つ男のほうが、聞かされるほうも反応に困らないし、清々しく感じられるのではないかと思う。

 とまあ、今回は私の自慢話がメインになっているが、最後にどうしても言っておかなければならないことが一つある。

 この世に無才な人はいない。

 (先に述べた)私が文章を書くようになった理由から分かるように、人の才能というものは、(ジョン・レノンや三島由紀夫のような生まれつきの天才を除いて)その多くが「苦痛」によって開花するという持論を私は持っている。

 一切皆苦。
 ブッダがそう説いたように、そう、生きること自体が苦痛を伴う。決して自殺した人を冒涜するつもりはないが、今、生きている人たちは、その生きるという苦痛に耐えられている訳で、それは「生きる」という立派な才能があることの証なのである・・・というオチだが、どうだろうか。

 人は皆、生きることに関しては天才だ。
 そのことをもっと誇りに思って欲しい。