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私が雑草を見つめる理由

幼い頃から自然が好きで植物が好きで、でもそれはほとんど受動的なもので、自分から意識的に動くということはしてこなかった気がします。子供の頃は親が連れて行ってくれるアウトドアレジャーで満足していましたが、その分、大人になるととっかかりがなくなってしまいました。東京に出てきたことも大きいです。車も持っていないし、どこへ行ってもたくさんの人がいる。私は自然からどんどん遠ざかっていきました。
しかし娘が生まれ、手を引いて散歩するなかでわざわざ遠くへ行くまでもなく足元に自然が息づいていることに気づきました。「雑草」と呼ばれる草たちは、とてもしたたかで、個性的で、魅力的です。

私たちは森を切り拓きコンクリートで土を埋め、そこに生きていたものたちを踏みにじって豊かな暮らしを維持しています。私の自然への半端な関心は、そのことに時々罪悪感を覚えるくらいにしか機能していませんでした。でも自然は、植物はもっとずっとすごいんです。環境が悪くなってもそこに適応したものが生き残ります。そこに住む人が望まないにも関わらず適応した植物=「雑草」は、抜いても抜いても生えてきます。酷暑を乗り越え厳寒をしのぎコンクリートを突き破り、土のないところでさえも勢力を拡大し生きていきます。

私には、自分が人間であることを罪と捉えとても辛かった時期があります。人間は美しい自然を破壊し、争いを絶やさず、弱いものをいたぶったり目をそむけたくなるような惨い事件を次々起こします。この世の幸福は誰かの不幸の上に成り立っているし、豊かな暮らしは夥しい生き物の犠牲の上に築かれていると感じ、恵まれた生活を享受しながらその罪悪感に引き裂かれていました。その感覚はパンデミックの不安によってさらに膨らみました。私は体調を崩し、家でもひとりの空間を確保できるよう家族にお願いしました。病への尽きない恐れの中で私を落ち着かせてくれたのは自宅のウッドデッキから眺める雑草の緑でした。私たちにとっては恐ろしいウィルスだけれど、人間の活動が制限されることによって力を取り戻すものたちもいる。観光地に戻った野生生物のニュースや、パンデミックなどどこ吹く風の植物と虫たちを見ていると私は癒されました。

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2020年4月から7月末まで書いていた日記があります。苦しさと向き合い解決策を探し、娘とステイホームを楽しもうとしていた記録です。

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植物のスケッチは子供の頃学校でした以来でした。下書きをせずペンでゆっくりと線を引き、慣れない色鉛筆の色を重ねて塗っていきます。子供の頃全然うまく描けなかった植物画が、今はそれっぽく描けることに嬉しくなりました。

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数日後には花にも挑戦。娘も乗り気で、たくさんスケッチしていました。このとき、雑草の名前を調べるようになったのです。名もなき草からひとつひとつ独立した生き物へと見方が変わりました。

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図書館が再開されると雑草図鑑を借りることから始まり、自然科学や文化人類学、宗教学関係の本を少しずつ読むようになりました。不思議と、知識を入れていくうちに、私の罪悪感などは自己中心的で傲慢な思い込みだと感じるようになっていきました。
もちろん罪は山ほどありますし、やるべきことも無数にあります。だからこそ何もしないで自分の思い込みに苦しんでいるなんて馬鹿らしいなと思いました。まずあるがままを認めなければ何も始まらないんじゃないかと。
私のキャパシティはとても狭くて、すぐに思い詰めてしまうし混乱してしまいます。だから休み休みやるし、なるべく好きなことをする。私が今最も大切にすべきことは子供の居場所である家庭の雰囲気を良く保つことなんです。だからできるだけ無理せず元気でいたい。

雑草を見つめることから始まった自然観察は私の荒れた心に潤いを与えてくれました。これからどんな展開になるかわからないけれど続けていきたいし、この癒し・楽しみを人に伝えていけたらなと思います。

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